【『終りに見た街』】
嘘八百の話って好きなのね。そういうの書きたいけど難しい。これは小説だけど『異人たちとの夏』(新潮文庫)、ありえない話ですけどやっぱり難しい。
(小説からドラマになった)『終りに見た街』(小学館文庫)っていうのは、戦後豊かになったころ、ある家族が昭和19年にタイムスリップしちゃう。それで適応しようとして、身の回りのもので相応しくないものは隠すわけですね。19年にそのまま隠れて息をひそめていれば絶対終戦になるからってことではない。3月10日の東京大空襲が近づいてくるから、少しでも救おうとビラを配る。上野公園は空襲に遭いませんから逃げてくださいと。そうすると、そのビラは何の役にも立たない。隣組があって自分だけ逃げるわけにもいかない、従ったら自分だけかわいいと思われる。間近で親がしてることを見て、子どもたちが怒り出す。みんなが命賭けてるのに、国が滅びるような事態なのに公園へ逃げろとか、何で戦わないんだと。親のいうことは聞きたくない、現実を生きると言い出して。気がつくとみんな死んでじゃってて、主人公だけぼろぼろになって生き残って、周りを見ると戦後の日本がやられちゃってて、東京タワーがひっくり返ってて、いまだったら墨田区のあれでしょうけど、これはいつなんだって言って終わる。
嘘の話じゃないと何か通じないってところはありますね。好きで書くんだけど、かつてはSFはテレビじゃダメで。いまはSFじゃなきゃダメみたいな(笑)。
【フィクションと人間】
アフォリズムってすごい力がありますよ。悪魔みたいな(一同笑)。文学ってそういうのも含めて人間を扱ってる。テレビは当たりさわりのないような、ひねりがないっていう。これ(『早春スケッチブック』〈1983〉)の場合も随分傲慢な台詞だけど、一方ではそうかなと思うこともあるんじゃないでしょうか。はみ出るものは扱わない。でも気分が悪くなるものもやる必要があるんだと。気分が悪くなるのが好きっていうと変だけど、そういう感受性もあると思うんですね。そういうの意識するだけで内容が膨らむっていうのかな。そういうの、映画でも少ないですね。文学でもみんな死ねって、いっぱいありますよ。そういうのがあって、もっと善を信ずるとかいろんな価値観、美意識があって感受性もいろいろで。フランス文学ではサルトルなんかも人間って怖いなって。でもそれを取り込んだ上での人間観がほしくなるときがある。みんな、いいことばっかり言ってられないよね。そういうのも、なるべくテレビドラマだって取り入れるって変だけど、そういう世界があったほうが…。アメリカ映画でも、びっくりするくらい人がいい。悪ぶる人もつまんない。フランスのある種のものは邪悪で、それも人間の感受性で、そういうのがあるだけで描くものも違ってくるし。アメリカ映画では凄んで「悪だ!」っていうけど、全然ワルじゃないと(一同笑)。奥深いところが…。
いじめなんかはいまでもすごいけど。福島から来ていじめるかと。邪悪だと思うね。どうしてそんな感受性で生きてるんだろうって。先生が教えるとかそういうものではダメで。それは人間には誰にでもある。誰にでもあるって気がつくだけでも。私たちはやらないって言ってるんじゃなくて、殺しちゃうことも人間にはある。特殊なことではなくて、そういうのも包含する人間の見方っていうかな、あんまり蓋をしないで。ドラマで扱うのは大変だけど何か工夫があるかなと。私がときどきやってる嘘八百で、嘘なら書けるっていうのかな。
どんどん若くなってしまうっていう小説(『飛ぶ夢をしばらく見ない』〈小学館文庫〉)をぼくは書きましたけど、おばあさんと知り合って若くなる。男は中年のままで、それからどうなっていくかっていうと、だんだん少女になって最後にはこれ以上会ってると彼女はいなくなっちゃう、精子と卵子に分かれちゃうかもしれないと。そういうの書くと幼児が出てきちゃって、幼児で意識は老婆。そういうふたりがセックスするわけではないけど、別れるときにいっしょにお風呂に入る。少しセックスの部分も踏んでもらうとか、多少あるんですけど。そんなのありえないじゃないですか(一同笑)。書かなくてもいいんだけど、そういう欲求だってある。人間って実はいろんなことを考えてるわけですね。そうしたらヨーロッパでもアメリカでも、翻訳でそこはダメだ、カットだと。ぼくはそれでもいいかなと。OKの国とOKじゃないところとがありました。幼児とセックスはできないけど、性的な意味でお風呂に入る。そういう話を書いてみたくなって(笑)書いたんですけど。フィクションってそういうこともできるんですね。露骨にうんと描写してるわけじゃないけど。奥行きがいっぱいある、フィクションって。思いつきをちょっと使うと安っぽくなりますが、どうやったってできるよね。それなりに制裁を受けるけど(一同笑)。
【その他の発言】
テレビはある意味では大衆性(が大事)で、もともとはそういうタイプの人間ではなかったですけど、自分がそういう立場で書くようになって、それはそれで書く値打ちはいくらでもあると。
(登場人物のその後を)考えることはあまりないな(笑)。俳優さんはいろんなものに出るでしょう? あまり古いイメージがあると悪いと思っちゃう。ぼくは(シリーズは)やらないっていうかな。やったから倉本(倉本聰)さんはけしからんってわけじゃないです。『北の国から』(1981〜2002)は小さい子がリアルタイムで大きくなっていって、素晴らしいですね。あれだけ強烈だと…。
(演出家は)意識します。違いますから。連続になるとひとりで全部やるのはめったになくて3人ぐらいで。その3人目みたいな人は、意識することはできないけど、3人目の人は先輩を踏襲してやってくださる。おれだ!って人がそういうところにいると困るかな。
そんなに普遍を目指してはいないけど、どんどん平和になってきたという。世の中がみんなソフトになってきて、ほんとは人間の考え方って、みんな死ねばいいみたいなのがいくらでもある(笑)。でもドラマから排除されて気持ちのいい、後味のいい、通念の判りのいい結末とか、そういうのが多くなってきて。もともとそうだったかもしれないけど…。