【制作準備 (2)】
塚本「前までは自分ありきという、都市と人間、バーチャルリアリティの中での自分さがしみたいなテーマで、でも自分の子どもが生まれて次の世代が気になる。『野火』(2015)をつくったのは、次の世代が気になるから。結局、戦争は若い人から行くことになる。そして負けっぷりがすごいと(年齢を重ねた)自分も行くことになる」
【撮影現場】
撮影はフィリピン、沖縄、埼玉深谷、ハワイなどで行われた。積み重なる死体や爆発でバラバラになる人体の映像はかなりのインパクト。日本兵の造形物をつくって、そこに本物の人間も混ぜたという。
塚本「(体験者の)寺嶋(寺嶋芳彦)さんという方に聞かせていただいたんですが、口から血を噴いて名言吐いて死んでいくんじゃなくて、ものすごい壊れ方だったと。
(現場では)痩せてたんで力が出ない。ダイエットしながら森の中で重いもの背負って。
今回は南に行きたくて。いままではコンクリートと人間。『ヴィタール』(2004)では都市で悶々としている人間が自然の中で突き抜ける。10年前ですが『野火』とつながってますね」
低予算で苛烈な現場では、ボランティアの人びとも活躍した。
塚本「この映画は風景の中に自分がいるところを自撮りしちゃえば完成するだろうけど、そのうち多くの人の力が必要だと思いつつ、全く考えない。最後はボランティアの人が軍服つくって、護送車も段ボールでつくって。でも最初は考えない、考えたくない。後で考えようって」
【完成・公開】
2015年に公開された『野火』は、監督の予想を超える反響を呼ぶ。
塚本「この映画ができても焼け石に水かもと思ったんですが、去年は(戦争が)意識に昇ってきた方も多かったようですね。つくったときは空気感が違って、ダメかもって気がしたんですが、多くの人(観客)が来て。時代に合わないかもしれないと思ったけど、ピタっと合った。
つくったときはかけてくれる映画館があるか、十何館くらいかなって。でも40館あるって聞いて、最終的には76館でかけていただいて。その全部に劇場行脚しました
(第70回毎日映画コンクールでは)監督賞は光栄で、でも主演男優賞は申しわけなくて謝りました。結局いいこと言えなくて3回謝って終わりました(笑)」
『野火』の舞台裏と上映の軌跡は『塚本晋也「野火」全記録』(洋泉社)にまとめられた。
塚本「『全記録』は去年全国を行脚してfacebookにアーカイブのつもりで上げてったんですけど、見てる人が不愉快だって消すと消えちゃう。アーカイブが保てるうちに本にしましょうと企画してくださった方がいて、洋泉社の方がもっと肉厚なものにしようと。
この本はパンフレットと違って、前半はとんちの限りを尽くしてこの映画をつくった話で、後半は去年1年をメインとして戦後70年を駆け抜けたって言うとオーバーですけど、そういう記録です。
もし映画をつくりたいという方がいらしたら、どういう映画館がいいかとか、映画祭の出し方とか…。ただ前半は変なつくり方(のレポート)なので、参考にならないかな。ただ、がんばれば映画をつくれるという(笑)」
ブルーレイ・DVDソフトが発売されたいまも、『野火』の上映と塚本監督のトーク行脚はつづく。
塚本「戦後71、72年で記憶がなくなっていくときにやりたいです。終戦記念のころに手を挙げてくださった映画館に1日だけでもやっていただけたら、と」
塚本「すごくはっきりした名前ですね(笑)。吉永小百合さんもいらした “反戦・反核映画祭” 。自分の気持ちとしてはまさにそのままで。こういう映画祭のとりであることは本当に光栄でございます」
この日はトークの後に深作欣二監督の傑作『軍旗はためく下に』(1972)も上映された。
塚本「『軍旗はためく下に』は、高校生のときに並木座で見て強烈でした。その時期に(『野火』の)原作を読んで、市川崑監督の『野火』(1959)も見ましたね。多感な時代。きょうは『野火』と『軍旗』をつづけて見たら、うんざりしますよね(笑)」
塚本監督は、トーク終了後に劇場の最後列で『軍旗』をごらんになっていた。