私の中の見えない炎

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藤子不二雄A インタビュー「もう一人の藤子不二雄が明かすドラえもん創作秘話」(1996)(1)

 9月23日は、藤子・F・不二雄(藤本)先生のご命日である。亡くなられてから、18年の歳月が流れた。以下に引用するのは、藤子・F先生の逝去直後の相棒・藤子不二雄A先生のインタビューである(藤子A先生の発言に絞って引用)。

 A先生の『まんが道』(中公文庫)などでも描かれるエピソードも語られている。

 

 藤本君は、毎年春に上映するドラえもん映画の原作を、七月から「月刊コロコロコミック」で連載していましたが、その三回目を自宅で執筆中でした。娘さんが食事で呼びに行ったら、藤本君は、机にうつぶせになって倒れていた。すでに昏睡状態だったそうです。亡くなったと聞いたときは、ポカーンとして信じられませんでした。

 肝臓を患って、十年くらい前から入退院を繰り返していましたが、けっして弱音を吐くことはありませんでした。三週間前に電話で話したら、声に元気がなかったので、「最近、調子はどうなの」と聞いたら、「どうも調子悪くてね」と言った。そんなこと言うのは初めてでした。

 藤本君は天才でした。小学生のころから、僕より断然うまかった。僕はどちらかというと、チャンバラのような絵が好きだったんですが、藤本君は柔らかい線で、丸っこいマンガを描いていた。彼の線は実に心地よかった。

 書斎派で学究タイプの男でした。本が大好きで、古代ローマ史から未来の本まであらゆる本を読んでいました。

 穏やかで控えめな性格でしたが、自分のマンガには絶対の自信を持っていました。上京した年の正月、雑誌の連載を落としたことがありました。田舎に帰ってマンガを描かずに朝から晩までこたつで寝ていたんです。五日になって出版社から催促の電報が来て、十日には「原稿を送るにはおよばず」です。結局、連載七本のうち六本を落とし、その後一年間は、出版社から総スカンを食いました。僕はお先真っ暗でしたが、藤本君は「大丈夫だよ」と毅然としていた。

 出版社にマンガを持ち込んで、描き直しを言われると、

「じゃ、けっこうです」

 きっぱり言って、その編集者のところへは二度と行きませんでした。

 

 僕らの合作は『オバQ』が最後でした。そもそも分けて描くのは大変だったし、しだいにそれぞれの個性が出て、タッチも違ってきた。これじゃあまずいということで、お互いに好きなものを別々に描いていこうとなったんです。

 それからは、お互い作品のことを話すことはなくなりました。相手がどんな連載を始めるのか、直前まで知らなかった。

 

 ただし、二人にはなんの取り決めもなかった。本当は契約書とか作るべきなんでしょうが、紙切れ一枚ない。僕らは最小単位の自然共同体をつくっていたんですね。藤本君が経理担当で、原稿料を共同の預金通帳にプールして等分していました。(以上、「週刊朝日」1996年10月11日号より引用)

(つづく)