【藤子・F先生の人物像 (2)】
藤子スタジオの社員旅行の集合写真が、公開された。大黒柱の藤本弘(藤子・F・不二雄)先生は、なんと端に写っておられる。
のむら「これが当時の写真、えびはら先生がどれだけ偉そうにしてたか(一同笑)。安孫子先生とえびはら先生が中央(一同笑)。藤本先生は左端、ぼくは安孫子(藤子不二雄A)先生の隣り」
えびはら「マンガの師匠は藤本先生、社会に出てからの師匠は安孫子先生かな」
のむら「えびはら先生は安孫子先生のサングラスも引き継いでる(一同笑)」
温泉など、いろいろなところへ行ったようだが…。
えびはら「みんなで温泉に行っても藤本先生は入らない。風呂に入るのは大嫌い、恥ずかしいみたい」
のむら「仲居さんに色紙書いてって頼まれると、丁寧に下書きまで描く。酒飲まないで、ずっと色紙書いてるんです」
えびはら「1回もお風呂入らないで、何のために温泉へ行ったのか。まあ気分転換かな。だからぼくも、ハワイ行っても絶対海に入らない(一同笑)。藤本先生は周りに流されない。端にいて本を読んでるみたいな」
【師匠としての藤子・F先生】
生前の藤子・F先生は、ご自身の絵について「もっと自分の絵が上手かったらね、描きたい世界がいっぱいあるんだけど……ぼくの絵だと限界がある」と悔しがっていたという(『定本コロコロ爆伝!! 1977-2009 「コロコロコミック」全史』〈小学館〉)。
えびはら「藤本先生が「ぼくはデッサンとかやったことがないけど、きみは行ったほうがいいよ」って言われて。先生はやらなきゃと思いつつ、やらずに来てしまった。ディズニーや手塚(手塚治虫)漫画から入ったから、リアルな絵が描けないと。これからは(自分のような)丸い絵はダメだって」
のむら「大友克洋先生の『童夢』(双葉社)。自分の絵でこの話は描けないと言われてましたね」
無口な藤子・F先生だが、いろいろ助言はしてくれたようである。
えびはら「ぼくを育てたいって気持ちはあったと思う。でも、それに応えてなかったなって。
本を読みなさい、映画を見なさい、と言われました。本を貸してくれたこともあったけど 「えびはらくんは、ほんとに活字嫌いだね」と。
志ん生の古典落語が自分のギャグのもとになってるって、CDを貸してくれたこともあったけど、聴いても当時は何言ってるか判らなかった(一同笑)」
えびはら先生退社後の『エスパー魔美』(小学館)はヌードが頻繁に出てくる。
えびはら「『エスパー魔美』は、先生がもう少しリアルな絵を描きたいと思ったのかなって。当時はお色気路線が流行ってたから、少しそういうのをやってみようと思ったのかな。『魔美』のとき、先生は裸が苦手だと言っておられて。ぼくは藤子先生が描かないものは何かなって思って『マチコ先生』を」
のむら「師匠は弟子を意識しますよ。ぼくの師匠は弘兼憲史先生。ぼくは『全国子ども電話相談室』に出てたんだけど、先生はいつもラジオを聴いてて「お前出とったな」と。それから弘兼先生は、急にラジオやテレビに出るように(一同笑)」
えびはら「『魔美』は『マチコ先生』を意識してたのかな。だったら嬉しいんだけど」
独立後のえびはら先生の『まいっちんぐマチコ先生』は大ヒットし、100万部突破のパーティでは藤子・F先生が挨拶してくれたという。
【その他のエピソード】
えびはら「『ドラえもん』の「台風のフー子」、フー子ちゃんはぼくが描きました(『ドラえもん』6巻〈小学館〉に収録)。大したデザインじゃないけど(笑)。あれがもとになって30ページの「のび太の恐竜」が描かれて、さらにそれが映画(『ドラえもん のび太の恐竜』〈1980〉)になった。
「ケロンパス」は、真っ白だったんでカエルの絵をぼくが描きました」
えびはら「藤本先生は速く描けないから、お風呂は何分、電車は何分とか全部ご自分で管理して、きちんと時間通りに動いてた」
のむら「いがらしゆみこさんの25周年パーティとかで会っても、藤本先生はこうやって、ぼくにすごく頭を下げるんですよ。ぼくより深くおじぎする。「ライバルですから」って…」
イベントの最後には、参加者みなで「ドラえもんのうた」を熱唱。その後は近くの居酒屋で、えびはら先生、のむら先生を囲んで何十人もが参加する飲み会が行われた。えびはら先生は、筆者の近くに来られた際に「(飲み物は)ちゃんとある?」と気づかってくださり、まことに恐縮。トークも面白かったし、なかなか忘れ難いイベントになったのであった。