私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 インタビュー(1995)・『夜中に起きているのは』(1)

 脚本家の山田太一先生の作品の底流にいつもあるのが時代や社会への批評意識である。描かれるのは “片隅” の出来事なのだけれども、常に時代が敏感に投影されている。

 1995年に発表された舞台『夜中に起きているのは』についてのインタビュー(「週刊金曜日」1995年3月17日号)では、阪神大震災直後の日本人の気分(?)に、山田先生が何とかクロスしようと試みているのが伺える。いまは読む機会があまりなさそうなので全文ノーカットで引用したい(用字・用語は統一した)。

 

 テレビドラマだけではなく、小説・映画・演劇と幅広く活躍する脚本家の山田太一さんに、東京芸術劇場で今月一八日(土)から三〇日(木)まで上演される書き下ろし作品『夜中に起きているのは』(地人会制作)について、語ってもらった。

 

 書かなきゃ、わからない部分がたくさんあるんですよ 

 テレビドラマでも小説、芝居でもなんでもそうだけど、書くときにあるテーマを持つんですね。結構興奮して「いいテーマだ」と思って、書き始める。ところが、半分くらい書いていて、自分が本当に書きたいものはこういうことだったんだと気がつく、そういうことがありますね。それまで書いていたものを捨ててしまうこともありますが、最初の線でどんどん発展させていって、いわば本当のテーマに気がつくということもわりあい多いですね。

 芝居の場合、ホールや俳優さんを確保しなければならないので、一年以上前にあるプランを出さなければなりません。実際、ものを書く人はそうだと思うけれども、書き出す寸前に「これはどういう意図で書くんですか?」と聞かれても、正確なことは答えられないと思います。嘘をつく気はないのだけれども「そんなのは無理だよ」という気がしてしまう。その通りに芝居ができたならば、それはかなり安っぽいものだと思います。つまり書かなきゃわからない部分が、かなりたくさんある、それが面白くてやっているところがありますね。

 台詞ひとつのために、一日中考えているときもあるわけでしょう。それを最初からわかっているように、概念で何か言えるということはおかしいですよね。もちろん戦争反対だとか、ストレートなことだったら言えるでしょうけれども、ものを書くというのはそういうことではないと思うんです。作者が書くのだけれども、あたかもそれが自然から投げかけられたような作品にできあがったら素敵ですよね。それは至難の業で、高等芸もあるし、ひとりの作者でも、一生のうちに一作か二作あればいいでしょう。

 

 ストップすることがひじょうに難しい社会と思うんですね

 現在は、少なくとも戦争がない、平穏な生活をしていますよね。その状況で生活にひとつの方向ができると、なかなかストップすることができないというか。お金は儲かったほうがいいということになると、とめどもなく儲けようとして、もう止まらない。スピード競技もそうでしょう。新記録を出すと、みんな止まらなくて、毎年毎年新記録をつくって、ついには薬を飲んでまで新記録をつくるようになるでしょう。家電製品を改造することだって、いいやっていう限界がないわけですね。ストップすることがひじょうに難しい社会だと思う。つづく)