私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 トークショー “生きがい探しシンポジウム”(1992)(2)

 生きがいの基準がもしあるとすれば、僕はうんと下げるべきだと思うんです。人間は非常に弱い存在であることもあります。皆さんがこの会の予約をなさって予定通り今日ここに集まってきたなんてことは、奇跡と言えば奇跡なんですね。地震が起こればとんでもないし、自動車にだって、いつ、はねられるかもわからないし、あらゆる障害を克服しながら、ここに集まっているわけですよ(笑)。指先を切っただけでもズキンズキンして、一日どころか何日も気分が悪いということもあるわけで、人間は非常に弱い存在です。

 そんな弱い存在が、なんとか、今生きているということに喜びを感じる能力を、だんだん手に入れ始めている時期が五〇代だと思うんです。だから手に入れ始めた時期に、高い生きがいなんかを求めるのは本当にもったいない。日々、生きていて、だれかとつき合ったり、同じ年代に一緒に生きているということに喜びを感じ合ったりしなければもったいない。そういう細かな喜びを感じることは青年はできません。そんなことにいちいち喜びを感じていたら、時期が長過ぎてたるんでしまう。だけど、我々ぐらいになってくると、もう先は大体見えているから、ちょっとしたことでもうれしいというか、ああ、生きているんだなと思ったりする。そういうことで生きがいを感じて構わないと思うんですよ。そういう感受性を、もうちょっと敏感にするというのかな…。なるべく生きがいの基準を低く低くして、生きがいの話をしたらどうかなと思います。 

月日の残像(新潮文庫)

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(中略)

                                                           

 近代的なプラスをどんどん拡大していくという方向は、もうストップしなきゃ、どうにもならない。そういう考えは、少なくとも議論上は、今だんだん常識化していますね。みんなストップしよう、ストップしようというふうになっている。シュワルツネッガーの『ターミネーター2』なんていうのも、研究を途中でストップしようというのがテーマで、しかもストップできたのはロボットであって、人間はどうしてロボットにできることができないんだろう、というのが、最後のナレーションで終わる娯楽映画なんですが…。それから、「きょうりゅうのうろこ」という童話があるんですけれども、これは恐竜が湖の向こうのほうにいるらしい。そこで、恐竜を見に行こうと坊やがボートで一人で行くわけです。そうすると、恐竜がいる。その鱗を一枚証拠に持って、また戻ってくるわけですが、岸に着く寸前に、その鱗を捨ててしまいます。そして、戻って、恐竜はいなかったよと言うんです。それはつまり、いたと言ったら、わーって騒ぎになってしまうから、そこで断念するというか…、情報を断念するというそういう種類のものが、僕は随分いっぱい出てきている時代だと思うんですね。ときどき例に挙げるんですが、一〇〇メートルの競争を毎年新記録をつくっていったら、それは薬を投与する以外に新記録をさらにつくることはできっこないわけで、それは当然、マラソンもそうだけれども。にもかかわらず、まだオリンピックで新記録をなんて言っているということは、もう完全に時代おくれになっている。でもまだ一〇〇メートルも、新記録を競っていますからね。だから走る人はもう薬をどっかで使う。ばれない薬を使う。それで新記録をつくったところで、人類の可能性が開かれたというふうに、周りの人も、人類も思わなくなってきている。完全にその種の努力は、もう限界を超えて、今度はマイナスにどんどん働いている時代になってきていると思うんですね。つづく

  

 以上、「生きがい探しシンポジウム 50歳からの選択」より引用。 

ナイフの行方 (単行本)

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