私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会 “物語のできるまで”(1997)(2)

 質よりも量に価値を求めるテレビ業界

 人間の権利、人権は平等ですが、人間の存在は平等ではありません。存在までもが平等なら、男性はみんなキムタクとおなじ顔をしていなきゃ不平等ですし、女性は沢口靖子さんみたいな顔をしていなきゃならない(笑)。けれども、じっさいにはそうはゆかない。

 ほんらいは、「人間の存在は不平等だから、人権だけは平等にしよう」という考え方だったのに、平等であることの意味がだんだんわからなくなって、「人間はもともと平等だ」と考えるようになってしまった。だから、自分が不当に扱われたときにはまるで、自然の掟に逆らって、あってはならないことが起こったかのように受け取ってしまうのです。

 テレビ業界では、そうした平等性をとても気にします。相対主義といいますか、なんでもかんでも平等に評価しなければいけないという考え方です。たとえば、だれかがある作品をいいと言った、だれかは別の作品をいいと言ったとしますと、その二つの作品に差をつけてはいけないのです。もっと具体的に言えば、一人はゴッホの「ひまわり」がいいと言い、二人はマンガの原画の一枚をいいと言ったとする。だったらマンガのほうがいいのです。テレビ業界ではものの価値はなにを基準に決められるのかというと、どれだけ多くの人がいいと言ったか、つまり量で測る以外にはないのです。テレビ業界では、そうした量ばかりを気にして、質は問題にしないという考え方に侵されているのです。

 視聴率はまさに量を測るものです。どんな人が観ていようと、たくさんの人が観た作品はよい作品であって、そうでない作品は悪い作品だと判断されます。視聴率が作品の善し悪しを決定するのです。一人の個人として判断すれば、作品の善し悪しはわりあいわかります。けれども、テレビ業界の人間の多くは、個人的判断に蓋をしてしまって、どうすれば視聴率がとれるかということだけを基準に番組をつくっているのです。

 テレビ業界には、好き嫌いの感情を顔にださない人が多いですね。自分をだすまいとする。ある人気者がいれば、すぐに俳優として使おうとする。「そんなやつは嫌いだ」と私が言っても、「嫌いだ」という感情を反対の根拠にすること自体が不思議だという顔をされる。嫌いであろうと好きであろうと、視聴率がとれるかどうか、たくさんの人の支持が得られるかどうかが重要なのです。

 好き嫌いの感情を出さないという流れは、脚本家の世界にも及んでいます。東京には脚本家を養成する学校がいくつかあるのですが、そこで私が講義をしたときに、ある生徒から、「脚本家は個性をもってはいけないのですか」ときかれてびっくりしました。別の脚本家の方に、「個性をもっていてはだめだ。個性を抑えて、どんな仕事でもできる人間にならなければ、脚本家として生きていけない」と言われたそうです。

 私は、そうは思いません。ドラマをつくるときには、あるいは小説や演劇にまで拡げてもよいのですが、作家は芯の部分に、「個人」というものをしっかりともっていなければ、セリフなんて浮かんでこないと思います。

 ところが、脚本家の世界にも、「個性が強いやつはだめだ」という風潮がでてきて、「個性の強い人は和を乱す」という理由で使ってもらえなくなるという、恐ろしい状況にあります。悪くても文化ですが、日本の社会の一端をになう放送という文化がそういう状態に陥りつつあることに、とても強い不安をいだきます。

 作家が個性をなくすということは、ぜひともこの人物を描きたいという強烈な情熱をもって書くのではなく、こういう人物を登場させれば当たるという理由だけで書くということです。こうしたドラマのつくり方は、中世の西欧の芝居のつくり方と似ています。当時は、旅まわりをしながら芝居をつくることが盛んでした。そのころに、「ストック・キャラクター」という言葉が生まれました。「キャラクター」というのは「性格」――役者が演じる役柄のことで、「ストック」は「とっておく」という意味です。たとえば、二枚目の役がいて、その恋人役がいて、さらに敵役がいて、ちょっと間抜けな三枚目の役がいてというように、決まりもののキャラクターをあらかじめ用意しておくのです。そして、「今回は、このキャラクターとこのキャラクターとを組み合わせよう」というように、登場人物を先に決めてからストーリーを考えるのです。

 そうした決まりものの芝居の延長線上にあるのが仮面劇です。なかでも、中世の西欧で隆盛を誇ったのが宮廷仮面劇です。仮面をみれば、どのキャラクターかはすぐにわかります。しかし、キャラクターには限りがありますし、仮面をつけた状態では、細かな表情やニュアンスを表現するにも限度があって、つくり手もだんだんとゆきづまってゆきます。

 ルネッサンスの時期にはいって、遠近法が認知されるようになりました。それまでは平面的だった舞台装置に遠近法を取り入れることで、奥行きのあるものをつくれるようになったのです。これにともなって、宮廷仮面劇はみるみるスペクタクルになってゆきました。舞台に船が登場したり、天井から身体を吊るして空中を飛んだりするようになってきたのです。このころの宮廷仮面劇は、役柄やストーリーはとてもシンプルで、複雑な心理描写はないけれど、派手な見せ場がたくさんあるというようになりました。それは現在のハリウッド映画ととてもよく似ています。

 「宮廷仮面劇は、観ているときはよいけれども、見終わるとなにも残らないね」と言ったのは、シェークスピアです。『嵐』という作品のなかでそのことを言っています。「仮面をとって、素顔の人間を描かなければ、観客は満足しない」と言いだしたのです。

 日本のテレビ業界もおなじ流れをたどるだろうと思います。人物の心理描写を単純にして、あまり深く考えなくても理解できるようなドラマばかりつくってきた。それに飽きたら、目先の変化をたくさんつぎ込んだ。それに飽きたらようやく、人間の複雑な心理を描いたドラマをつくるようになるのではないか。そうは言っても、急激に変わるのは難しくて、時期を待たないと、なかなか変わらないでしょうね。つづく 

 

 以上、冊子「物語のできるまで」より引用。

月日の残像(新潮文庫)

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夕暮れの時間に (河出文庫)

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