
暴力団の裏金に手をつけてしまった男(明石家さんま)はひったくりで賄おうとするが、その金をギャンブルで困窮する女(大竹しのぶ)に奪われた。再会したふたりはさらなる強盗を実行するも、悪徳刑事(小林稔侍、加藤善博)も絡んで大金の奪い合いが勃発する。
映画『いこかもどろか』(1988)は、テレビ『男女7人夏物語』(1986)と続編『男女7人秋物語』(1987)の大ヒットを受けて制作された。同時期にテレビ『あぶない刑事』(1986)を映画化した『あぶない刑事』(1987)が公開されており、『夏物語』『秋物語』も同様に後日談を劇場公開しても何らおかしくはない。だが『いこかもどろか』が異色なのは、メインスタッフと主演コンビは共通しても、『夏物語』『秋物語』とは全く別の世界観の物語を映画で構築した点である(筆者は見る機会がなく、最近ようやく国立映画アーカイブの上映で鑑賞できた)。
『夏物語』はメインタイトルで “女” の文字が “男” に蹴りを入れる。そのタイトル映像の通り、『夏物語』は女性主導の恋愛集団劇が展開され、当時は画期的であっただろう。『夏物語』は自分の夢のために男性(さんま)を振った形で女性(大竹)がアメリカに渡り、その続編『秋物語』では女性が夢をあっさり棄てて帰国して他の男性(柳葉敏郎)に乗り換え、最終的にはもとの男性への想いが再燃して舞い戻る、波乱のドラマが描かれた。殊に『秋物語』では大竹しのぶ演じる女性のせいで大きな非のない岩崎宏美や手塚理美などまでが振り回され、主人公カップル(大竹、さんま)に天罰がくだることもなく理不尽なストーリーであったけれども、要約すると個の欲望を徹底して追い求める人物が常識家の群れを蹴散らしてしまう構図である。つまり『夏物語』『秋物語』の二部作は昭和末期という早い段階で、各々の「自分らしさ」が推奨される21世紀を先取りしていたのだった。自分らしく生きて個を発展させていくと、どこかで他の個と不可避的に衝突する。岩崎や手塚が沈んだ様子を拭いきれない一方で、結ばれた大竹とさんまが得恋を喜ぶでもなく歩み去って行くラストは荒涼とした印象を遺し、「自分らしさ」を最大限に発揮するのはおそろしい行為でもあると暗示されていた。こうしたラジカルな展開を描き得たのは、当時のテレビカルチャーが先進的な媒体だった証左でもある。
『夏物語』『秋物語』の余勢を駆って映画化の企画が持ち上がったのだろうが、過激な『秋物語』のさらなるアフターストーリーを描くのは困難に思える。それゆえか脚本の鎌田敏夫、監督の生野慈朗、プロデューサーの武敬子らが続投した映画『いこかもどろか』は、同じ主演コンビが犯罪に走るという全く異なるアプローチが取られた。ちなみに制作を請け負ったのは『あぶない刑事』も手がけたセントラル・アーツである。
当時、ヒットメーカーとして多忙だった鎌田の脚本は突貫工事で書かれたのか、主人公男女がバスで唐突に再会したり、不自然にひったくりが多発したり、福島から帰京する際に新幹線でなくわざわざレンタカーを借りたせいで結果的に銀行強盗に間違えられたり、物語の都合による粗雑さが気になるけれども、女性が男性を主導して自らの意思を貫く『夏物語』『秋物語』の構造は抜かりなく踏襲された。
『いこかもどろか』の女性主人公は、自ら人生を切り開いてきたと宣言する。
翔平「お前がおらんかったら、こんなことにはならんかったんです!」
小夜子「弱い男ほど、人のせいにするんです」
翔平「お前やって、人のせいにしとるやないか」
小夜子「してないわよ」
翔平「してるやないか」
小夜子「してないわよ!」
あまりに真剣な顔で怒るので、
翔平「…………」
小夜子「私は、ギャンブルもしたわよ。使い込みもしたわよ。ひったくりもしたわよ。金庫破りもしたわよ……でも、それを人のせいになんかしたことはない。私は、自分がそうしたいから、そうしたのよ。人のせいで、そうしたんじゃない! 私は、人のせいで、こうなったなんて思ったことは、一度もないわよ!(小夜子の目に涙がにじむ)」
翔平「(驚いて)お前、どないしたんや?」
小夜子「私は、自分の人生を自分で生きてきたのよ。どんなことが起こっても、人のせいになんかしたことない」(『いこかもどろか』〈角川書店〉)(つづく)


