【小熊秀雄との出会い(2)】
原田「昭和10年代になると戦争のほうへ引きずられていくんですね。だから小熊さんの文章も悲しげな調子なのかもしれません。戦争の機運を盛り上げていこうということで、帝展は大流行します。国が在野の団体からいい作家を引き抜いて帝展の審査員にして、帝展を国家の中心的文化政策の基軸にしてしまう。そういう中での帝展は小熊さんから見ると何たるこっちゃというふうに見えたんだと思います。結局、以後の帝展は戦争ばっかり掲げる展覧会をやるようになっていった。そういう中で池袋モンパルナスを考えるとしみじみいいなと思えてきますね」
寺田「パリのモンパルナスと池袋モンパルナスを比べると、パリのそれには売れる前のモディリアーニやシャガールがいて外国人が多かった。池袋も小熊秀雄が書いているように地方人、東京はみんなそうだけど外から来た人が多い。池袋で乗り降りする人の7割くらいは埼玉県人ですね。千葉県や神奈川県の人は来ませんよ。
小熊さんは「あまり太くもなく、細くもない ありあわせの神経」という。ユーモアというか皮肉というかね。
父(寺田政明)も母も言ってましたけど、住人自体は池袋モンパルナスなんて言葉を使ったことがないと。小熊秀雄の詩が優れているから、のちに詩がひとり歩きしていったんですね。
父は1937年の独立美術協会展で独立賞を受賞します。既にデビューはしていたけど、これで世の中に認められた。タイトルは「街の憂鬱と花束」。初入選は「風景B」だったですが、今回のタイトルは文学的で小熊秀雄の影響かな。父は終生タイトルにこだわっていたから、影響がすごくあったではないかなと。「魔術の創造」「宇宙の生活」とか。
うちの母親は北九州八幡の米屋の娘なんですね。だから父親も米には不自由しない。この当時の画家にはみんな自立した奥さんがいて看護師さんとか学校の先生とかで、生活は奥さんがキープ。男たちは絵を描いて酒飲んで喧嘩して(笑)。うらやましいですね。松本竣介の奥さんは編集者で小熊秀雄の奥さんは音楽教師。彫刻家の白井謙二郎の奥さんは英語教師。先生は絵描きとか芸術家にあこがれるのかな。いまはそういうカップルを見ないけど。それで母は米屋で、母の兄に理解があって米を送ってくれる。長屋みたいな暮らしだから米や醤油の貸し借りはしょっちゅうで、米を渡したら中に十円札が。お兄さんが旦那にはないしょで妹に、ということですね。母はミッションスクール出身なのよ。うるさくて喫茶店に入っても怒られちゃう。それが東京に出て来て、毎日が自由。みんなで銀座や上野まで歩いたり。みんな貧乏だから自分が貧乏だなんて思わない。いまは月行っちゃう奴がいるからおのれの金のなさを思うけど。貧乏でも自由のほうがいいのかな。でもお金もほしいよね(一同笑)。
丸木俊(赤松俊子)さんは母親の証言ではてきぱきとしていたと。当時の女性はモンペ姿だったけど、男みたいにズボンをはいていてそういう女性は珍しかった。班の組長をやって、うちの母はのんびりした人だから赤松さんは怖かったって。
だいたいみんなひと棟なんだけど、うちはふた棟を借りてて片っぽはわれわれがいる生活空間でもう片っぽは親父が絵を描いていた。片方にみなが集まりやすくて、そこで池袋界隈に出て飲んだり。貧乏なわりによく酒飲んでる。コーヒーとか1杯でねばるのかな。
1940年11月20日、豊島区千早町にあった東荘というアパートで小熊秀雄は結核で亡くなりました。39歳で、私の生まれる2年前。この年は長谷川利行も行路死。養育院で亡くなります。大きく時代が転換するわけですね。その11年後に描かれた「灯の中の対話」ではろうそくのもとでネズミが対話していて、小熊さんは電気を止められてろうそくを使って詩を書いたと。通夜もろうそくで執り行われて、父はそのイメージをこの絵に抱いていたようです」
【戦中の池袋モンパルナスとその後】
寺田「1941年12月8日に太平洋戦争が始まります。それでもカルチャーリーダーだった小熊秀雄亡き後も、みんながそれぞれに制作をしていました。戦争が始まると絵は公開禁止になる。なおかつ「絶命」なんてタイトルだと厭戦的であると特高がマークする。特高はモンパルナスの近所にしょっちゅういたらしいけど、結局こいつらは絵を描いてるだけで何もしないと気がつくのね。そのうちお茶飲んだり会話して、うちの母も特高に感じのいい人がいたと言ってましたね。1943年に新人がかいが2回あって、1944年に1回。銀座でやって、戦争中にですよ。原田さんがおっしゃったように、戦時中でも絵を描かなければ生きていけないみたいなのがあったんでしょうね。うちの父は足が悪くて徴兵されないけど、1944年に従軍画家として中国のほうへ行きました。そして1945年8月15日に終戦を迎えます。1947年、池袋モンパルナスから板橋区前野町に引っ越します。当時はひぐらし谷と言われて、東京のチベットと。麦畑ばかりで大草原の小さな家みたいなね(一同笑)。そこで父親は生涯を終えるんだけど。私は足りない子でほとんど記憶がないんですが、引っ越しするときに牛に乗った(一同笑)。馬車より牛車のほうが安かったのかな。いまは牛肉のほうが高いけど(笑)。家財道具なんて大したものはないから、うつらうつらと夕方に引っ越したのは何となく覚えてますけどね。日暮谷は夏にはうるさいぐらいひぐらしが鳴いてましたけど、1989年7月28日に父は喜寿で亡くなりました」
原田「亡くなる前に寺田政明を訪ねていけばよかったなあと(笑)。
生活費がなくても食いつぶせみたいな池袋モンパルナスの人の性質は、寺田政明たちが20代のころからあった。太平洋美術学校は、その前は太平洋洋画研究所という名で学生が月謝を全然払わない。学校が払わなきゃ追い出すぞって言ったら、鶴岡政男たちが中心になってストライキ。月謝払わない奴らのストで学校をつぶしちゃったんですね(一同笑)。学校は美術学校と名前を改めてやり直すんですが、そういう食いつぶすみたいなのは自分がやりたいことをやるんだっていうことですね(笑)。そういう自分本位で社会性のないグループ。元気だったのは戦時中で、隣組があってぜいたくするなって相互監視が深まっていった時代なのに。社会的にはだらしないけど、あいつら仕方ないからほっとけと。戦時中に絵画展をやったということでのちに評価が高いんだけれども、そういうことをやったっていいだろうという下地がずっと前からあったんじゃないかと」
寺田「池袋モンパルナスの千早町、長崎町、要町は区画整理がされてないんですね。道路がそのまま残って住宅地になってるから、昔の雰囲気がいまでも歩いてみると判る。1軒だけ昔のアトリエが残っていて、たまたま私の知り合いの絵描きさんが借りています。地霊というか、そういうものがあると思います」