私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

寺田農 × 原田光 トークショー “池袋趙遥 今も昔も” レポート(2)

【池袋モンパルナスの誕生】

原田「絵描きたちがフランスに留学して研鑽しながら仲間意識も高めて、帰ってから1930年協会をつくる。その面々がパリで学んできたのはフォービズム。ひとつの表現主義で、ナイフを油絵に叩きつけてキャンバスに吐き出すという描き方なんですね。それを1930年協会が掲げて、フォービズムが日本中で大流行し始めるきっかけをつくりました。寺田政明さんもそこに入っていました」

寺田「ヴァン・ゴッホなんかもフォービズム。マティスもですよね。フォーブは野獣という意味で荒々しい絵が多い。そこへ福沢一郎がシュールレアリズム、超現実主義の画風をパリから持ち帰ってきた」

原田「昭和の初めの美術は、世界中に共通してるんですが一斉に前衛主義・実験主義が起こったんですね。福沢さんが大金持ちの息子なんだけど、関東大震災後のどん底みたいなときにフランスに留学して、シュールレアリズムの表現を学んだ。帰って来て独立に迎えられて、向こうで描いた作品を並べて、みんなびっくりした。見たこともない反写実的な不思議な作品で、若い人たちがあこがれて大きな渦になっていったんですね。寺田政明さんもそこに入り込んだという」

寺田シュールレアリズムはアンドレ・ブルトンなんかのフランスの文学運動から始まった。個の回復、人間の個を大事にしていった。マックス・エルンストとか絵描きにも波及して、福沢一郎は日本に持ち帰ってきた。個の回復は日本が戦争に向かうときに問題になる。戦争で挙国一致なのに、個の解放を言われちゃ国としては困るわけで特高警察が取り締まっていくわけですね。

 昭和8年、父は21歳で豊島区長崎へ転居します。長崎アトリエ村と呼ばれていました。いまの池袋駅は新宿、渋谷に次いで乗降客第3位です。1日300万人近い。山手線が池袋につながったのは大正14年です。なかなかつながらなかったのですが、当時の池袋は農村で湿地帯で池がたくさんあった。ふくろうがたくさんいた。それで池袋になったらしいですね。だからいまの池袋にもふくろうの置物ばっかりありますね。当時は麦畑と大根畑ばっかりだった。雑草が生い茂って、ある人は池袋の周辺は秘境のようだったと書いています(笑)。学生も多くて物価も安い。そういうところにアトリエ村があったんです。

 アトリエ村は昭和6年ごろに建てられた。まずは15畳のアトリエと北向きの窓。絵には北向きが重要です。お孫さんがパリで勉強してきて、そういうのを資産家のおばあちゃんに建ててくれと言ったら10軒ぐらい建てようと。やがて大変な評判を呼んで、不動産バブルじゃないけど最盛期は500軒を越えて住人は1000人以上。別格として巨匠であった熊谷守一丸木俊(当時は赤松俊子)さん、彫刻家の峯孝、白井謙二郎。若い画家、詩人、彫刻家。若い俳優も住んでいました。市川崑監督も若いころにいた。デザイナーの長沢節さんとか。野見山暁治先生とかね」

小熊秀雄との出会い(1)

寺田「ここで父は詩人の小熊秀雄と出会います。北海道の小樽生まれでうちの父親とは11歳上なんですね。幼少期を稚内樺太で過ごした。炭焼きの手伝いしたり、工場で機械に挟まれて右指を切断したりして、さまざまな雑役をした。3歳で実母が死んで、継母が来てうまくいかなくて、苦労に苦労を重ねて。そしてお姉さんの紹介で旭川新聞社に入る。その中で詩を書いたり小説や評論を書いたりしていった人です。27歳で上京して、うちの父と会って。出身は北と南で違うんですが気が合って。小熊さんの最初の詩集は父の装幀です。父親は23歳で本の装幀なんて初めてじゃないかな。

 小熊秀雄の代表作は「長長秋夜」。いまでも小熊秀雄の命日は長長忌というんですね。長編抒情詩が多くて長い。作家の井上ひさしさんがあるときに書いていますけど、夜中に制作に行き詰まるとふたりの詩人を読むんだと。ひとりは宮沢賢治で、もうひとりは小熊秀雄小熊秀雄を読むと自分の心に深くしみいるものが生まれてくるそうです。童話では「ある手品師の話」。有名な「焼かれた魚」。後年には美術評論もやってマンガの原作「火星探検」もあります。この『火星探検』は手塚治虫小松左京にも影響を与えた。小熊さんは父の画材を使って油絵も描いてますね。「夕陽の立教大学」という絵で長らくうちにありましたが、いまは豊島区が所蔵しています。小熊さんは「池袋モンパルナス」の呼び名のついた詩の入ったエッセイ(「サンデー毎日」1938年7月31日号)も書いています」

原田「エッセイではモンパルナスの若い人のことを優しい目で見ていますね。帝展に出品するのは素敵だけど、帝展自体はお前のことをないがしろにしてると批判してます。美術史的にアバウトな話をしますと昭和10年当時の帝展というのは国が経営してたんですが、他に独立や二科といった在野の団体もいっぱいあってそちらにむしろいい作家がひしめいてました。帝展は権威がある分だけ制度的に固まってしまって面白くない」(つづく