私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

長谷川和彦 トークショー レポート・『太陽を盗んだ男』(2)

【『太陽を盗んだ男』について (2)】

長谷川「それでも役者ってこういうことを気にするんだと思ったのが(『太陽を盗んだ男』〈1979〉の)タイトルで役者の頭(トップ)に文太(菅原文太)さんが出るんだ。ちょっと違和感あるだろ。沢田(沢田研二)主演の映画なのにタイトルは突然、文太さんが出てその次が沢田で。あれは文太さんがいちゃもんつけてきたんだ(一同笑)。「他は全部、沢田がトップじゃないか。あそこぐらいおれに頭をとらせろよ」って言って来たんだよ。この人もそういうことを言うんだと思って。でもまあ、いろいろ感謝してるからそのぐらいいいかと。でもゼロ号試写で違和感はあったな。それだけだな、文句があったのは。芝居も想像以上によかったし。

 (ラストに横で聞いて)いい曲だなと。この映画はほんとに堯之(井上堯之)さんの音楽に助けられた。『青春の殺人者』(1976)のゴダイゴにも助けられたな。

 

 俳優の他に助監督の相米慎二なども映っている写真が映された。

 

長谷川「この手前におれの女房が映ってるよ。子どもを産んでくれて、おれが家出したもんだから離婚したけど」

【監督デビューの前】

長谷川「ガキのとき、東映の助監督を兄貴に持った同級生がいて、高校3年のお盆に遊びに行くとお兄さんがいて。写真を見せてくれて、そのお兄さんが健(高倉健)さんと握り飯を食ってるんだよ。映画をつくる人間がいるんだと初めて知ったんだよ。広島だから、撮影所はないからな。映画を死ぬほど見てて、映画ほど好きなものはなかったな。二番館で3本立てとかやっててな。

 幡ヶ谷の火葬場の裏に今村プロの事務所があって、おれは給料が出なくてアパート代が払えないから、管理人と称して住んじゃってたんだ。そのころはまだ結婚してないんだがかみさんの女友だちのヒモとして、相米が来た。最初は、うちに帰ると見知らぬ毛むくじゃらの男が冷蔵庫開けて食ってるんだよ(一同笑)。びっくりして「なんだお前」って言ったら「いやどうも」って。「長谷川さん、映画って面白いですか」って言いやがるんだ。また来て映画やりたいんですって言うんで「日活へ出向で行くからお前も連れてこうか」と。相米は、映画の経験は全くなくてね。

 おれは日活に行って、最初に(助監督を)やったのは『土忍記 風の天狗』(1970)という高橋英樹主演の時代劇で小沢啓一さんが監督。その翌年がパキ(藤田敏八)さんの『八月の濡れた砂』(1971)。ダイニチ映配が終わって、監督候補だった奴もプロデューサーになったり。伊地智啓とか岡田裕とか、その後で大プロデューサーになった人たちだな。日活はロマンポルノになって、おれは年間8本くらい助監督をやった。やっと食えるというか、今村プロは年収30~100万という触れ込みで入ったら、月給は手取り2万円(一同笑)。嘘じゃないんだ。その2万円もすぐ出なくなってね。

 『風の天狗』のクランクアップの日に長男が生まれたんだ。ガキを孕んだんだな、結婚もしてねえ女が。おれは子どもつくっちゃいけない人間だと思ってた。被爆者でガキつくって身障者が出きたらっていう怖さがあってね。同棲してた女が孕んだ後で、おれは被爆者でって言うのは男らしくない。産むかって訊いたら「面白いと思う」って言うから、面白いで産むなよって。被爆のことは一切喋れなくて。結婚式はやろうとしたんだが、みんなが「おめでとう」「おめでとう」言うから白けてやめたんだ(一同笑)。

 おれは「お前も字ぐらい書けるだろ」と言われて脚本を書いたんだ。『性盗ねずみ小僧』(1972)を先に書いて『濡れた荒野を走れ』(1973)も書いたら、変な若いのが日活にいるってことでATGの多賀祥介ってプロデューサーが1本撮らんかと言ってくれて、それで『青春の殺人者』を撮って」

【ディレクターズ・カンパニーの記憶 (1)】

 ディレクターズ・カンパニーは、80年代に映画監督たちが参集した画期的な会社である。

 

長谷川「ディレカンの成立は、おれが2本の映画を撮って3本目をどうするというとき。角川映画が全盛のころでね、スポンサーやプロデューサーに気に入られれば映画撮れますみたいな感じがあって。おれは角川春樹に声かけられて、何の企画だったか忘れたけどな。「あんたは角川じゃなくてまる川でこういうことやってると面白かったよね」って言ったら、春樹が「ぼくは角川でまる川じゃありません」って言うから「こいつバカだ」「冗談も通じねえぞ」って撮ってたカメラに向かって言ったんだ(一同笑)。そしたらそれがオンエアで使われちゃって、角川春樹としてはそんな屈辱的なことを言う監督にお願いしない、みたいな」つづく