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榎戸耕史 トークショー “和の匠・美術監督 池谷仙克の映画” レポート・『さらば箱舟』『台風クラブ』(2)

【『さらば箱舟』について (2)】

榎戸「(『さらば箱舟』〈1984〉では)全員がひとつの家に集まるシーンがあるんですが、小松方正さんとか。全員集合のために外部の役者さんにも東京から飛行機で来てもらったんですが、1便違いで羽田沖に日航機が逆噴射で落ちたんですね(350便墜落事故)。みんな助かって、ほんとに怖かったです。聞いたときには「え、うちの便じゃないよね!?」。ハブでも怖いし、航空機事故もあって、すごく大変だったですね」

 

 「百年の孤独」のタイトルで台本(脚本:岸田理生、寺山修司)が印刷されて制作も進行したが、結局は改題することになった。

 

榎戸「『草迷宮』(1978)をピエール・ブロンベルジェの制作で撮って、そのときにマルケス代理人と交渉して、原作にしていいよという了解のもとで進めていたみたいですね。日本版に直すのに脚本の岸田さんにお願いして。撮影が終わって仕上げをする前に、ちょっと休みがあって、寺山さんが病院に行って。その間に編集は進めてもらっていたんですけど(題名を)使えなくなりそうだということで。急遽、寺山さんが『さらば箱舟』というタイトルに直したという。びっくりしました。もう撮影もしてましたし、内容も架空の村の架空の家族の物語と原作に沿ってましたので「え!?」と拍子抜けみたいな(笑)」

池谷仙克の想い出】

榎戸「寺山さんを知る前に、橋浦方人さんの『星空のマリオネット』(1978)という、ATGの社長になる佐々木史朗さんの会社の東京ビデオセンターで撮った作品があったんですね。このときに池谷さんが美術デザイナーをしてくれて。ぼくはまだ映画の仕事を始めてまだ2年目の助監督だったんですけども、そのときに出会って。橋浦さんの作品は『マリオネット』、『海潮音』(1980)、『蜜月』(1984)と3本やって、3本ともそれほど美術的な仕掛けはなかったんですけど」

榎戸「その後で寺山さんとは『草迷宮』からついてやらせていただいて、天井桟敷には小竹(小竹信節)さんという天才的につくりものをやってくれる方がいて、アップリンクの浅井(浅井隆)さんも美術でついてくれて。寺山さんの世界観はこういうことかなと何となく思っていました。それで池谷さんは鈴木清順の『陽炎座』(1981)をやっていて、見たときに絶対寺山さんと合うだろうなって思ったんですよ。池谷さんのセンスはこういう世界をつくらせたら抜群だなと。役者さんもスタッフも外の人と寺山さんとやったら面白いんじゃないのかなと思ったんで、どうですかって言ったんですね。寺山さんも『陽炎座』を買っていて『さらば箱舟』が実現したわけです。別につなげたというつもりはないんですけど。

 池谷さんはすごく繊細な方で、映画の画面に映らないような部分もつくってくれて、寺山さんの世界に活かせるものがたくさんあるなと」

 榎戸氏には、池谷仙克相米慎二監督にも紹介した功績もある。

 

榎戸「『さらば箱舟』は(主人公が)物忘れをするようになって紙にどんどん書いていって。そのシーンを見ていて、『台風クラブ』(1985)で台風がやって来て湿度が高くなって紙がしおれたりする世界に合うのかなって思ったんで、相米さんに池谷さんはどうですかって話をしたら「いいよ」って。『台風』も池谷さんにやっていただくことになりました。

 (ロケ地の)学校を貸してもらえることはないだろうけど、水びだしでぐちゃぐちゃにしちゃったんで。風を吹かせたり雨を降らせたりというのはできるけど。『台風』を見ていただくと、教室の後ろに生徒が書いた習字が貼ってあって、風で揺れたりしおれていったり。台風が微妙に近づいてきている世界はなかなか美術で表すことは難しいのに、紙を使ってやってくれる方はなかなかいない。台風で流れる家をミニチュアでつくってもらって、そのミニチュアが流れるシーンは相米さんが結局カットしてしまったんですけど、そういうのを愉しんでやってくれる方もなかなかいないですね」