ある村の一家の盛衰を描いた寺山修司監督の大作映画『さらば箱舟』(1984)。
ガルシア・マルケス『百年の孤独』(新潮社)を日本に移植した野心作で、寺山の遺作となった。寺山の率いた劇団・天井桟敷の面々に加えて山崎努、小川真由美、原田芳雄、高橋洋子、天本英世など多彩なキャストが顔を揃えている。昨年10月の特集上映“和の匠・美術監督 池谷仙克の映画”の中で『さらば箱舟』が上映され、助監督を務めた榎戸耕史氏のトークもあった。津島令子氏が聞き手を務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理している部分もございます。ご了承ください)。
【『さらば箱舟』について (1)】
榎戸「『百年の孤独』を寺山さんが翻案して映画を撮りたいと、ATGの佐々木史朗さんに企画を持って行って実現した作品なんですね。寺山さんの病気が進行してまして、撮影するまでに時間を結構かけて、どこで撮影するかとか。現場では準備を全部しておいてから、それで寺山さんを迎えてショットを撮っていくというハードな現場でした」
榎戸「当時、寺山さんは阿佐ヶ谷の河北病院にかかっていて、ぼくもそこの主治医の先生にお会いして、どういう情況だったら撮影が許してもらえるんだろうかということを訊いて。できるだけ寺山さんが現場にいるのは短い時間にして、負担をかけないような方法でやってくださいと言われましたし、夜の7時以降の撮影は絶対にダメですと。できるだけ早く休ませるということを守らないと許可できませんということでした。
寺山さんにとって最後の作品になるのかなというのもあったんで、プロデューサーの九條(九條今日子)さんがこれまでは天井桟敷の人をメインにしていたけど今回は自由にいろんな人を入れて最期を迎えさせたいということで。いろんな方にお声がけして最後の作品に臨みたいということになりました。
寺山さんの作品ではカメラマンの鈴木達夫さんがずっとやっていらっしゃって、お互いに信頼していて。鈴木さんがカッティングというかカット割りをだいたい決められて、寺山さんはそれに対してこういうふうにしたいと言って現場に臨む。前の晩に次の日のスケジュールを決めておいて。役者さんも含めて全部準備してテストをやって出来上がったところで、休んでいただいていたホテルから寺山さんを迎えてショットを撮っていくという方法をとりました。
どこのロケ地にするかというのがあって、最初は寺山さんの希望で北に行きたいというのがちょっとあったんですが、マルケスの『百年の孤独』自体が架空の町の架空の一族の不思議な世界の話だったので、なんとなく北というのは…。気候の問題もあったんですけど、沖縄ってのはどうだろうということになって最終的には沖縄に。寺山さんは行ってないんですけど、ぼくらが行って写真に撮って見せてどうでしょうと。寺山さんも了解で。近代的なものは映せないし、特殊な世界を描きたいということで沖縄の中で(ロケ場所を)選んでいくとハブが必ず出るんですね。ロケハンのときから怖かったんですが、ハブで死ぬ人が1万人とかいるぐらいで。ハブ研究所の人に必ず同行してもらって、撮影のときに現場でまずハブ研の人が棒でハブを追いやってつかまえて。棒と麻袋を持ってて、つかまえて袋に入れる。何匹ぐらいつかまえたか、こっちから見ていてもだいたい判るんですね(笑)。3匹ぐらいかだなとか。それは毎日でした。この撮影は(1982年)2月から3月にかけてで、石垣島はあったかくて、へびにとっていい。何かの隙間にかなりいる(笑)。血清は常に用意して、とにかく噛まれたらすぐ血清と。噛まれたら後遺症で手がおかしくなるとか、準備のときに聞いてたんで。現場でも勝手な行動はしないようにと。幸運にも誰も噛まれなかったんですが、さすがにみんな怖かったんだと思います。それに天井桟敷の方は、寺山さんの命令系統がしっかりしていますし、あんまり無茶はしない」(つづく)