私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

寺田農 トークショー レポート・『雪の断章 情熱』『風花』(4)

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【その他の相米作品 (3)】

 『光る女』(1987)も大変な思いしてやったのに全部カット。おれもバカじゃないから、絶対切れないところに出てやろうとだんだん思うようになるわけだね(一同笑)。『雪の断章』(1985)は主役の3人(斉藤由貴榎木孝明世良公則)がこれからどうするかと決定的な話をするときの屋台の親父、これをやろう。

 この親父は工業デザイナーで、いまは屋台にいて、客の写真を撮るのが趣味でなおかつカセットテープでクラシックをかけるとか、おれが言ったわけだよ。相米相米慎二)は「いいね。ほんとに工業デザイナーに見えるかやってみろよ」と。このシーンは絶対切れないわけよ。カセットを裏返しにするところとかやって、3人が決定的な話をしていたらポラロイドで撮る。できましたよって渡す。普通の映画なら屋台の親父はただ黙々と働いてるだけだけど、決定的なことを喋るときにおれが撮ってあげたりする。すると喋ってる芝居が止まっちゃったりするけど、おれがそういうことをやるから大事な話が活きてくる。相米は判っていたね。

 ナイターなんだけど、昼過ぎに段取りだけ決めて「もうどっか遊び行っていいよ」って言われておれはひとりで札幌に行って、ラーメン食って帰ってきたら流れがようやく決まってて、そこから本格的にテスト。市電がバックに走ってるけど、そろそろカメラ回さないと市電の最終になっちゃう(一同笑)。

 そういう何かを役者が考えてやれよっていう。監督だって判らないことは山のようにあって、役者が何かやって監督が触発されればそれでいい。いろんな監督がいて、実相寺昭雄は役者が何かをやるのを絶対許さない。多くの監督は自分の世界に立ち入ってほしくないし、自分の言った動きで自分の思う芝居をしてほしいんだね。 

 (相米は自分に)何の役をやれよっていうの(指示)はないんだ。『あ、春』(1998)はこのトラックの運転手をやるって言って。おれが寝てるとおかみさんの富司(富司純子)さんが、何とかさんみたいな感じで起こしに来る。「何でこれ(この役を)やるんだ」って相米が言うから、いままでお前とずっとやってたけど、役名のあるのはない。屋台の親父とか(一同笑)。これは名前呼ばなきゃいけないから、何て名前か忘れちゃったけど。

 相米は音楽の使い方がものすごく上手くて音楽のセンスもよかった。『光る女』(1987)のアリアとかね。「実相寺さんにおれを紹介しろ」と言われて、実相寺は芸大の名誉教授になるほどクラシックを知ってるから、おれがセッティングして相米と会わせた。実相寺は逃げ腰だったけど、相米とすごく仲良くなってしょっちゅう飲んだり。でも実相寺は全部お願いして、役者は動く小道具。相米は役者を待つ。全然違うけど、音楽の入れ方は難しいですねってふたりで意気投合したらしい。

 上がりが判らないってのは実相寺もそうだけど面白いね。やりながらどうなるのか判らない。 

 あいつとは3回絶交したんだよ(一同笑)。最後の絶交がコマーシャルで、資生堂の口紅のナレーションをやれと。それで「かっこよすぎる、もっと汚い声で」ってテイク60ぐらいで、おれも切れちゃって、できねえよこんなの。もっと渋谷の汚い若者みたいにしてくれと。金はちゃんともらったけど、できたのはほんとに素人のがががみたいな声使ってて、それだったら最初からおれに振るなって(一同笑)。相米はクラシック好きで、ハレー・カルテットのコンサートでまた会って「てめえこの野郎」って言ったら「飯食い行こう」って言われて、おれもすぐ言いくるめられちゃうんだな。

 『風花』(2001)は、おれが博多で芝居やってたの。もう台本は来てて、おれはこの役と決めた。浅野(浅野忠信)のお父さんで、スケジュール的には北海道ロケが終わって、おれの九州の芝居も終わったころに奥さんの法事のシーンを撮る。そしたら北海道で金使いすぎて、そのシーンはもういらないと。おれが(劇中で)留守番電話にメッセージ残すだけになって、芝居は12時くらいからだからホテルで寝てたら、助監督から電話で「監督が寺田さんに直接留守番電話に入れてもらえと言ってます」。え、台本もねえよ、方言もあるしって言ったら「私がいまから方言を教えます」と。おれはホテルの浴衣で二日酔いで入れて。後で録り直すってことだったけど、監督があのままがいいと言ってるということで、そのままに。

 芥川賞作家の辻原登さんと相米で交流があって、初対面でも平気で相米は料理に箸のばしてきたらしいけど。相米のお通夜のときは辻原さんと映画評論家の山根貞男さんと3人で朝まで飲もうということになって、辻原さんが会員のクラブに行って、朝までいろんな話をして偲んだこともありましたね。(つづく