吉原の花火師たち(松本克平、殿山泰司、牧口元美)はかつてのような大花火を打ち上げようと画策していたが、娘(真喜志きさ子)は何とか止めたい。娘の恋人で自衛隊を脱走した青年(橋水光)は、ある行動に出た。
鈴木清順の原案を内藤誠監督が映画化した『時の娘』(1980)は、清順監督の代表作『ツィゴイネルワイゼン』(1980)につづいて「シネマ・プラセット」にて公開されたスピンオフ的な小品。清順監督作品と同様に荒戸源次郎プロデュース、大島渚映画やテレビ『ウルトラマン』(1966)などの佐々木守脚本とユニークなスタッフ陣が集結している。梅宮辰夫、加賀まりこなども登場。
5月に阿佐ヶ谷にてリバイバル上映が行われ、内藤誠監督と牧口元美のトークもあった。両氏とも東映の不思議コメディーシリーズに関わられた経験があり、筆者は内藤氏と言えば『ロボット8ちゃん』(1981)の監督、牧口氏は『不思議少女ナイルなトトメス』(1991)や『うたう!大龍宮城』(1992)の怪演の印象が強い(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
【企画と制作現場】
内藤「久しぶりに35mmで見ました。自分でも持ってまして、非常勤で行ってた日大芸術学部の倉庫に16mm版と35mm版を預かってもらっていて見たいと思ってたんですが(笑)。
牧口さんはぼくよりひとつ上だと思うんですけど。1980年の作品で、お互い歳をとりましたね。
「母に捧げるバラード」というのを鈴木清順さんが東映で撮るっていうんで、佐々木守が清順共闘の議長をやっていたんで、最初は佐々木守とふたりで組んで、東映の金で山の上ホテルでホンを書いてたんですよ。ところが清順さんがややこしい話にしていくもんだから(笑)なかなか通らなくて」
牧口「よくわかんねえよな」
内藤「山の上ホテルを追い出されて、ぼくのマンションで清順さんを養いながら(笑)。清順さんは歯が治ってなくて、桜えびとか鰻とか柔らかいものしか食えない。うちの家内も清順ファンだから柔らかいものばっかりで、ぼくは肉が食えなくて往生した記憶があります。
東映ではやらせてもらえなくて、荒戸くんに自主制作で撮らせてくれって言って」
内藤氏は1960〜70年代は東映で多数の脚本・監督を手がけていた。
牧口「内藤さんは東映を辞めた?」
内藤「辞めたというか、自主映画での初めての作品で。東映時代に知ってるスタッフを連れて行って撮ったんですね。ぼくが自分で監督したから、清順さんは原案になっています。牧口さんにもただで出てもらって(笑)。
東映でこの前に撮ったのが『十代 恵子の場合』(1979)で、東映セントラルってところで撮った。今回と同じ鈴木史郎さんというカメラマンで、いまはどうしていらっしゃるか。
お金がなくて、2週間ぐらい鎌倉で合宿して撮ったんですね。荒戸源次郎があのころ鎌倉に住んでて。ぼくは東京に住んでたんだけど、吉原ロケは鎌倉から行きました。メインの遊郭は、吉原にもああいうところはもうなくて川越で撮りました。東映を離れると、撮影場所が勝手なところでできて嬉しかった記憶がありますね。多田(多田佳人)くんっていう美術の優秀な人がいて、オールロケだけど飾ってくれてるんですね。子どもの本を書いたときには多田さんに挿絵を描いてもらいました。
あの時代の吉原は、トルコ風呂といってました。いま見ると時代劇みたい。お台場で花火の実験やってるところは、東京湾から撮ってる。貿易センターができたころです。なんか古い時代。
初めての自主制作だけど勝手なことをやらせてもらって、カメラは全部のぞいて。いま見るとわりと綺麗な画が並んでいて、頑張ったんだなと(笑)」
【俳優陣について (1)】
牧口氏は荒戸源次郎の劇団・天象儀館と関わりがあるので出演したのだという。
内藤「松本さんと殿山さんと牧口さんと、この3人の花火師がいい雰囲気だと思って撮ってたんですが。牧口さんといえども、いまはお歳を…(笑)」
牧口「そうね。殿山さんが…」
内藤「松本克平さんっていう、俳優座の人はうちの家内の叔父なんです。殿山さんも松本さんもジャズが好きで、ピットインというところによく並んで」
牧口「新宿のね」
内藤「当時は違う場所だったんだけど、山下洋輔トリオとかを聴いてました。牧口さんは天象儀館の仲間だから出てもらったんだけど、あとのふたりはコネクションで。でも3人で愉しそうにやってくれてますね」(つづく)