6億円の宝石 “ファラオの星” が盗まれ、国際慈善会議名誉会長の娘が誘拐された。取り返すために自衛隊のレンジャー隊員(千葉真一)、殺し屋(佐藤允)、合気道師範(郷鍈治)が集結。追いつ追われつの戦いが開幕する。
石井輝男監督『直撃地獄拳 大逆転』(1974)は『直撃!地獄拳』(1974)の続編で、全編にアクションと下品なギャグが詰め込まれたアクション・コメディ。公開から長い歳月を経たいま見ても笑える。12月に池袋にて石井監督の特集 “石井輝男 超映画術” が行われて『大逆転』が上映され、伊藤俊也監督と瀬戸恒雄プロデューサーのトークショーも行われた。司会は映画評論家の賀来タクト氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
【石井輝男との出会い】
伊藤「大泉の東映東京撮影所の門をくぐって、助監督12年目に『女囚701号 さそり』(1972)というのでようやく監督デビューできました。長い助監督生活の中でも印象深いのが石井輝男さん。新東宝からお見えになって外様だったんですけれども。石井さんとは縁あって7本いっしょにやりました。
石井さんが、大泉で最初につくったのが『花と嵐とギャング』(1961)で、私がつく前ですが。新風がそそぎ込まれた感じがしましたね。東撮に入ったとき、若造のくせに生意気な青年だったんですが(笑)。東映東京は満映の流れもあって、今井(今井正)さんや家城(家城巳代治)さんとか関川(関川秀雄)さんとか社会派のリアリズム映画が目玉だったんですね。ただそれだけでなくて、第二東映もできたので量産しなくちゃならいけない。警視庁シリーズというのもつくられていて、私は侮蔑的に呼んでいたんですけれども “警視庁リアリズム” というか。それを否定してかからなければ自分の映画はない、と極端に考えておりまして。それがさそり三部作に行き着くと思うんですけど。そういうリアリズムに対して石井さんは新風を吹き込んだというふうに、私には受け取られておりました」
瀬戸氏は伊藤監督より10歳下で、石井との出会ったのも10年以上ずれている。
瀬戸「京都で監督をしていた石井さんが、久しぶりに東京で撮ったのが『直撃!地獄拳』。俳優さんのスケジュールで、セット回転がうまくいかない。私は制作の助手でした。スケジュールで悩んでて、セットは入れないからロケーションに行こうってちらっと言ったら、監督がいきなり“吹き替えの人を用意しておいてください”と。それが出会いでしたね。6本つきましたね。東映を辞めてからも石井プロをやれという話になりまして、いまだにつづいております」
【現場での想い出】
伊藤「『霧と影』(1961)は私の1年目の仕事で、夏の能登半島で撮影しました。私は夏になると泳がずにはおれなくて、能登の隣の福井県の生まれで。海岸の霧が狙いだったので、小道具さんと海に出てスモークを焚くという仕事を担っておりました。地上にいると用事を言いつけられるけど、海上では自由気ままだというところもあって。水死体が上がるシーンもあって、大部屋の俳優さんがやる予定だったのが、水が苦手ということで。じゃあ私が代ろうと、映画に最初に登場する水死体をやりました。何気なくやったんですが、田舎の両親がいち早く見に行ってくれたんですけども、電話がかかってきまして「あれだけはもうやめてくれ。どう見てもあの死体は俊也にしか見えない」ということで、家庭内で物議をかもしました(笑)」
瀬戸「石井さんは切り替えがすごく早い人で、現場処理能力というか。すぐ鉛筆を走らせて私の目の前でシナリオをすらすら書いたり」
【『網走番外地』シリーズ(1)】
伊藤「(石井監督との)3作目の『網走番外地』(1965)はモノクロにされて、モノクロというのは当時予算が低く見積もられたんですね。会社からはそのような扱いを受けて、期待されてなかった。そのことが石井さんの負けじ魂に火をつけて、健さんも奮い立たせたと言えると思います。健さんは大泉の網走番外地、西の『日本侠客伝』(1964)でスター街道へ踏み出すんだけれども、それまではひばり(美空ひばり)さんのおつき合いとかの扱いでした。雪の中で裸になって、健さんも撮影部の重い機材をいっしょに運んだりする情景もありました。
厳寒の地へ行って撮影することで、会社からダウンコートみたいなのを支給されたり。中央の新得へ行ったり、やがて網走にも行って、まだ馬車が走っているような時代でした。セカンド助監督は仕切り役で、チーフは監督のそばにいて何もやらない人もいる。セカンドは、当日のスケジュールから役者まで管轄する。そういう役回りで、嵐寛寿郎さんが初めて東映に出たということもありますし、印象深いです。
瀬戸さんから出たような石井さんの要領のよさが発揮されました。俳優さんふたりのうち、ひとりを待たせてもうひとりのアップだけ撮っていく、というようなことでは上手な監督だったと思います。ぽんぽん撮っていって後でつなげると快調、というのがうまい。ときには予定表に出ていないシーンを撮ることもありました。何が来ても、ちょっと待ってくださいというようなのことがないように、小道具さんに用意しといてくれよと言ってました。例えば、馬の首を常時トラックに載せておきました。馬に乗るシーンで(本当には乗らないで)馬の首とアップだけということもありまして、いい吹雪だからここで撮っちゃおうというような。編集、鮮やかなカッティングがうまくて。面白くなるかと思ったら、もうひとつということもありましたけど(笑)」(つづく)