私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

高橋洋 インタビュー(2008)・『狂気の海』(4)

――話が戻ってしまいますけど、高橋さんは「サイボーグ009太平洋の亡霊」の何にそれほど触発されたんでしょうか。

 

高橋:「太平洋の亡霊」の中で、大戦末期に使用された桜花という人間爆弾が蘇って襲ってくるという設定があるんですけど、当時はまだ戦争に負けて悔しいという気持ちをみんなが持ってたんですね。子供たちも戦艦大和のプラモデルを普通に作ってる時代だったから、当時9歳だった僕も桜花のことを知っていた。だから、ああいう形で桜花の活躍を見ると溜飲が下がるわけですよ(笑)。でも同時に、それがメチャクチャやばい感情であるというのもわかる。つまり、起きてはいけないことが起きているのに、自分はこんなに盛り上がっているという、引き裂かれるような状態になるわけです。それで最後に憲法9条がバーンと出て、それが戦争の犠牲のうえに成り立っている理想だと言うでしょう。しかも、それを狂人に言わせてるんだよね。こういう歪みを持ち込むことで、「戦争の悲惨さを語り継がねばならない」なんて言い方では伝わらないものが伝わってしまうわけですよ。「戦争をなくすために戦った」という世界最終戦争論みたいな特攻隊員の言い分と憲法9条がつながってしまうというアクロバティックな論理の展開が狂人の頭の中でならできるんですね。だから、「太平洋の亡霊」から受けた衝撃というのは、矛盾をはらんだ構造でしか伝えられないものがあるという、それを感覚的につかんだことの衝撃ですよね。そういうことが今は理屈で言えるけど、当時は感覚としてわかる感じがあったと言うか。

――『狂気の海』のベースには高橋さんが幼少期に見たアニメーションや特撮映画があるんですね。

 

高橋:僕は特にそういうのが強いみたいだね。黒沢黒沢清さんなんかと話してると、「なんで君はそんなに原体験みたいなものが強いの」って言われるから。でも黒沢さんの映画だって、子供時代に観た怪奇映画がベースになってると思う。やっぱり、いざという時に出てくるのはそれなんですよ。

 

――『ソドムの市』『狂気の海』と拝見して、映画のより根源的な部分、核心的な部分に高橋さんなりのやり方でアプローチしているように感じたんですが、今までのお話を聞いていると、それよりも高橋さんの映画的な原体験へ遡っていく意味合いのほうが強いようにも感じます。

 

高橋:最近思いついた言い方で言うと、オマージュとか引用とか、そういう次元では全然なくて、自分が魅入られたものを粗悪でもいいからコピーするということなんです。初期衝動ってそういうもので、ブルース・リーの映画を観たら、みんながブルース・リーの物真似をするし、ペキンパーの映画を観たら、みんながスローモーションの動きを真似するというのがあるでしょう。それと同じように、ある表現媒体で成立したものを別の表現媒体、例えば今回のような低予算の自主映画に移し変えることで得られる自由があるんじゃないかと思うんです。それは表現というものの根源に関わると思いますよ。

 

――その自由と言うのは、どんな意味合いでの自由なんですか。

 

高橋:例えば、石ノ森章太郎さんが「サイボーグ009」という漫画を考えたわけですけど、誰が見てもこのネーミングは安易じゃないですか(笑)。007シリーズが成立している当時の実写の世界で「サイボーグ009」という映画を作ったら、たぶんみんなパロディーか何かとして扱うんですよね。真面目かパロディーかという窮屈な枠組みがそこでは働いてしまう。でも、それを漫画に移し変えると、実写の世界の窮屈なフレームがウソみたいに消えて、誰も「サイボーグ009」が安易な作品だとは思わない。まったく独自のものとして立ち上がって、その世界にのめりこんで楽しむことができる。さらに、その漫画を東映動画がアニメーション化する時に、かなり原作を変えたんですね。その後、原作を大事にする方向に転換して、だんだん絵柄も原作に近づいていったんですけど、一番面白かったのはやっぱり最初の頃じゃないのかなと。つまり、オリジンの漫画を、オリジンの側から見れば何だこれは!って思うぐらいな形でコピーしていた頃のほうが、自由だったということなんですけど。

 

――そういう自由があってこそ、「太平洋の亡霊」のような傑作が生まれたんだと。

 

高橋:そうです。あれは原作にはないエピソードだからね。もしも原作を大事にしましょうという姿勢でやっていたら、原作の作った箱庭の中で精度を競ってるみたいなことにしかならない。でも、それは不自由でしょう。

 

――そういう視点で言えば、今回の「狂気の海」も、実写の007シリーズが漫画の「サイボーグ009」にコピーされ、それがアニメーションの「サイボーグ009」にコピーされたからこそ生まれた作品ということになりますよね。

 

高橋:だから、自主映画はそういう安直なことができる場所だからこそいいんだってことを言いたいんですよ。でも、その安直さって言うのは、みんなでクンフーごっこをやっているのが素晴らしいということじゃない。しょうもないものが山のようにある中で、安直さの中からしか生まれえない傑作があるはずだということなんです。表現の歴史は、新しい媒体が登場した際に起こるコピーの系譜だと思います。つづく

 以上、「映画芸術」のサイトより引用。