私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

高橋洋 インタビュー(2008)・『狂気の海』(3)

――たしかに『狂気の海』は音の情報量が多いですよね。FBIの心霊捜査官を演じている長宗我部長宗我部陽子さんが現れる時にハエの音が鳴っていますが、あれはやはり『エクソシスト』だからなんですか。

 

高橋:西洋から来た悪魔のイメージだから。わからない人はたくさんいるみたいですけど(笑)。

 

 自分が魅入られたものを粗悪でもいいからコピーすること そこに自由がきっと生まれる

 

――とにかく雑多な要素を詰め込んでいく映画の作り方は、8ミリ時代の作品や『ソドムの市』から一貫しています。世間で『リング』の脚本家として認識されていたころには知られていなかった高橋さんの本性がここへ来て露わになってきた感じがあるんですが。

 

高橋:自分としては『リング』の時からあまり変わってないと思ってるんだけどね。

 

――ただ、ギャグに関しては『リング』の頃とは全然違いますよね。『狂気の海』も、もう少しシリアス風にしておけば観ている側の気持ちもおさまるんだけど、ギャグが入ってくるせいでどうも落ち着かない。どのジャンルの映画を観ているのかわからなくなってきて混乱するんですね。そうかと言って、コメディーというわけでもないですし。

 

高橋:要するに手塚治虫ですよね。3歳の時から読んでるから。彼の漫画は基本シリアスですけど、ありとあらゆるところでギャグを入れるでしょう。今の若い人はああいうのを “照れ” と捉えるみたいなんだけど、そうじゃなくて必然。本来ああいうものなんですよ。いわゆる「ここで笑いが欲しい」とか、そういうものですらない。だから、ギャグだと思っていないのかもしれないですね。

 

――手塚治虫の名前が出ましたが、『狂気の海』は「サイボーグ009 太平洋の亡霊」というTVアニメに触発されて作ったものだと公言されていますよね。高橋さんの中でアニメとか実写の区別というのはあまりないんでしょうか。というのも、今回のような作品は実写でやるのは難しいと考えるのが普通じゃないかと思ったからなんですが。

 

高橋:夕張の映画祭(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭)で『狂気の海』を上映した時も、30半ばぐらいの映画人に「こういうのって普通アニメですよね」と言われたんですよ。その時に今はそういう感覚なんだなぁと思ったんだけど、僕の中にそういう感覚は全然ないんです。やっぱり実写映画の場合だと、リアルでなければいけないという意識が強いんでしょうね。特に同時録音が普及してからのことですけど、我々が生きている時間の自然な立ち居振る舞いと、フィクションの世界にいる人物の立ち居振る舞いが一致していなくちゃいけないみたいな。でも昔は、アニメであれ実写であれ極端なことをしてましたからね。それはリミテッドアニメーションだったということもあるんですけど、リミテッドアニメーションというのはフルアニメーションよりもセル画の数が少くて、極端に言うと紙芝居を動かしたみたいな感じになる。驚くという表現も、のけぞる絵と前にのめる絵の2枚を交互にパカパカくり返すみたいな。それって時代劇とか昔の映画にある型の芝居に近いんじゃないのかなと。そういう発想が頭にあるので、今のリアルな時間の流れを記録した映画って、僕は観ていて退屈してしまう。もっと飛ばせるじゃないかって思うんですね。

――今の話とも関連してくると思うんですが、高橋さんは以前から、感情移入できるとか共感できるというレベルで人物を造形することには否定的です。『狂気の海』でも、そういう人物造形が物語のスケール感と相まって、いい意味で戯画的な世界を作り出しているように感じたんですが。

 

高橋:例えば、心霊実話テイストの話を語る時に、まずはいわゆる「日常」から入って、そのうちに不可思議な怪異が起こるという発想がどうもセオリーのようにあるみたいですね。でも、そこで「日常」と呼んでいるものが、本当の日常なのかなって思うんですよ。日常って何かと聞いたら、たぶん「何も起こっていない状態」という答えが返ってくると思うんだけど、僕らがリアルに経験している日常は「何も起こっていない状態」ではない。だから結局、そこで言われている「日常」はリアルじゃなくて、ただの段取りに過ぎないんじゃないのかなと。それじゃ面白い日常って描けないですよ。日常が何も起きなくてつまらないから非日常を描くという意識じゃなくて、ひょっとして日常ってこうじゃないの?というぐらいの気持ちで今回の映画も撮ってるんですけどね。それは『リング』のような心霊実話テイストをやる時もそうですよ。つづく

 以上、「映画芸術」のサイトより引用。