私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

高橋洋 インタビュー(2008)・『狂気の海』(5)

――今回の映画では「サイボーグ009太平洋の亡霊」以外にも、シェイクスピアの戯曲を下敷きにした表現があったり、核ミサイルが「リンダ・ブレア1号」と命名されていたり、多くの文学や映画などへの言及があると思います。シェイクスピア戯曲の援用に関しては、それに気付かなくても意図が大きく誤解されることはないと思いますが、「リンダ・ブレア1号」という名前については、観客が『エクソシスト』を知らなければ単純に反応できないですよね。その辺りの引用や言及に関して、高橋さんはどう考えてるんでしょうか。

 

高橋:「リンダ・ブレア1号」については、ホンをゼミ生に渡した時に、わけがわからないという意見が出たらやめようかなと思ってたんです。でも、何人かから「あそこのシーンは感動的ですよね」と言われて。ちょっと今回一緒にやった9期生って変な人が多かったのかもしれないけど(笑)。ただ、それは先行する映画から何かを引用することで自分の映画が支えられるという意識ではなくて、なんて言うか「エロイムエッサイム」と唱えれば悪魔が出てくるというような感覚なんです。で、なぜかあのミサイルの名前は「リンダ・ブレア1号」なんだと最初から決まってたんですよ(笑)。でもなんで『エクソシスト』で悪魔憑きの少女を演じた女優の名前を核ミサイルに付けたのかは自分でもよくわからない。

 

――でも、アメリカはバカにされたって思うでしょうね(笑)。

 

高橋:リンダ・ブレアという女優さんは子役として大成功したけれども、その後は女囚ものとかに出演してあまり恵まれない役者人生を送ったわけですよ。だからって彼女の人生が虐げられたものだったとは思わないけど、アメリカ中があの少女に対して後ろめたい気持ちを持ってるんじゃないか?みたいな、変な妄想はあるかもしれない。子役ってそういう妄想を抱かせるところがあるでしょう。ある時期だけみんなに持ち上げられて捨てられてしまう存在という。

 

――ドリュー・バリモアとかブルック・シールズもそうですよね。

 

高橋:うん。そういう人が復讐してきたら恐いみたいな。

 

――なるほど(笑)。その話、今、作りませんでした?

 

高橋:いやいや(笑)。今、初めて言葉になったけど、根っこにあるのはきっとそうだよ。

 力があればいびつでいい

 

――高橋さんは世間では脚本家として認知されていますけど、学生時代には8ミリ映画を撮られていて、今また『ソドムの市』や『狂気の海』などの監督作を世に送り出しています。元々、映画界に入る前から脚本家になろうと思っていたんですか、それともいずれは監督になりたいと思っていたんでしょうか。

 

高橋:そもそも8ミリを撮っていた時に自分が脚本家になれるとは夢にも思っていなかったわけですよ。だから、脚本家になるための勉強もしたことがない。一方で、自分の撮った映画を見たら、自分に商品が作れるはずはないということがわかりますよね。だから、現場に入って映画監督の道を目指すという考えは頭からなかった。でも、何らかの形で映画の世界でメシを食えるようにして、時間ができたら自主映画を撮るっていう、二本立てみたいなプランがなんとなく頭にあったんです。それでたまたま書いたプロットがテレビ局に売れたんで、俺ってシナリオ書けるんだと思って、じゃあ食いぶちはシナリオで稼ごうと。その後、シナリオの仕事をやりながら、自主映画を撮れるような態勢を模索していたら10年間できなかった。それはシナリオの仕事で大変だったということなんですけど。そういう流れの中でたまたま映画美学校から声がかかって、行ってみたら「お、若いスタッフがいるぞ」みたいな(笑)。だから本当に成り行きなんですよ。

 

――脚本家として一線の仕事をするようになっても、監督するのは商業映画ではなく、あくまでも自主映画という意識だったんですか。

 

高橋:シナリオではちゃんと商品になる映画を構築するんですけど、それは上手い人が撮ればいいんだし、そういうつもりで書いている。自分が撮る時はもっとむき出しで本質だけ、みたいになるから、つまりそれは商品にはならないということでしょう。例えば、『発狂する唇』という作品はシナリオとしても自分がやりたい本質志向に近いんだけど、あれを低予算の商業映画の現場で成立させるには、撮影条件が相当タイトになってきますから、普通、無茶というか、あれは佐々木佐々木浩久さんぐらいの現場経験、現場をコントロールする能力がなかったらムリなんですよ。そういう意味で、商業的な枠組みの中で監督としてきちんと振舞うというのはムリだと思ってましたね。つづく

 以上、「映画芸術」のサイトより引用。