息苦しい生活を送るサラリーマン(藤村有弘)はひょんなことから出会った女性(渡辺美佐子)に魅せられた。暴力団組長の妻でクールな雰囲気の彼女だが、実は競輪選手(川地民夫)に入れあげていた。
『人間に賭けるな』(1964)は競輪にまつわる者たちの愛憎をシャープに描いた、知られざる佳作。渋谷で渡辺美佐子の特集上映が行われ、本作のリバイバルと渡辺氏のトークショーもあった。聞き手は『アカシアの道』(2001)や『続・深夜食堂』(2017)などで組んでいる松岡錠司監督が務める。
松岡「(コロナ禍だが)渡辺美佐子さんも全然平気でやって来て、さっき控室で揉めてたのがマスクを外してちゃんと顔を見せるということ」
渡辺「私はすごく気が引けてたんです。有名なスターが出てるわけでもないし、名作でも大作でもないのに3週間も大丈夫かしらと。支配人さんは何を考えているんだろう。こういう催しがあると伺って、本当にびっくりいたしました(笑)。
1960年前後の映画ばっかりですよね、白黒で。テレビはまだ試作品みたいなドラマを撮ってた時代で、映画の全盛期ですね。私は日活と出演契約を結んで。その他に東宝、東映、大映、松竹の5社が毎週2本ずつ新作を公開してました。週に2本をつくるのはほんとに大変で、私もがむしゃらに参加してたんですけど。松竹とか他の会社のめぼしい助監督さんを集めてきて今村昌平さん、浦山桐郎さん、西村昭五郎さんですね。その方たちといっしょにやってました。午前中は女子大生で午後は芸者とか。映画ががしゃがしゃつくられてて、申しわけないんですけど(上映作品の)半分は覚えてないですね(一同笑)」
【養成所と日活時代の想い出 (1)】
渡辺「俳優になる気は全然なかったんですけど、ひょんなことから俳優座の養成所に入りまして。養成所は仲代達矢さん、平幹二朗さん、市原悦子さん、田中邦衛さんとかたくさんのいい俳優さんが出ましたけど、実技は教えないんですね。大学と同じで英文学の講義ではシェイクスピアのこととかで、私たちは大学ノートに筆記する。フランス文学の時間にはモリエールがどうしたとか。週に2時間くらい小さな舞台をやることはありましたけど、日本舞踊も声楽も授業にはない。
卒業して新人会っていう小さい劇団にいたんですけど、そこでお芝居をしてましたらすぐにお金がなくなって次の公演が打てない。私と小沢昭一さんがつくった劇団で、ふたりで日活で稼いで来いと言われまして。年に5本契約。そのころは俳優も足りないんですね。そうやって新劇の人を集めたり、ニューフェースで綺麗なお嬢さんとかも。ニューフェースさんは監督さんや助監督さんが手取り足取り教えてあげるんですけど、私は俳優座の養成所を出てるということで誰も教えてくれないんですね。芸者ったって着物も七五三のとき以来着たこともない。ただ俳優座をしょってますからね。衣装部さんや小道具さんの部屋に駆け込んで、着せてもらってお酌の仕方とか教えてもらいました。私は映画育ちって言ってますけど、映画でいろんなことを教えてもらったんです」
松岡「西村昭五郎さんのデビュー作の『競輪上人行状記』(1963)が先で『人間に賭けるな』は連続して撮られてますね。
ぼくの故郷にも競輪場がありまして、友だちのお母さんが競輪場で焼きそばを焼いてたんです。ごちそうしてくれるから行ってたんですね。高校のときには賭けるようになってたんですが、負けたときの怒号はえげつないですね。殺意に近いと思ったんですけど、金網越しにどうしてくれるんだみたいに。ぼくは怖くなりましたね。選手が頭垂れて帰ってくると、馬と違って直接に人間を攻撃する。それが強烈で(笑)。競輪場から駅までの間に墓地があってうちの墓もあるんだけど、負けて頭にきてる人たちがそこを通るんで一方方向に墓石が倒れてる。ドミノ倒し(一同笑)。競輪ってえげつないなって想い出があります。
『人間に賭けるな』の前田(前田満州夫)監督ってぼくは初めて知ったんですが映像に切れ味があって、脚本は田村孟さんで論理的な台詞と映像とが融合されてて驚きましたね。90分もないんですけどものすごい情報量と切れ味です。踊りのところは?」
渡辺「あれはむちゃくちゃです。私は歌も踊りもだめで、やけっぱちになって」
松岡「すごくうまくいってるように思いますけど」
渡辺「あのシーンはつらくて、どうしようかと思ってやったのは覚えてます(笑)」(つづく)