【現場の想い出 (2)】
山際「スタッフには怒鳴ってましたよ。モーターボートが動かなくて、困っちゃって。何時間もかけて大島の近くまで行ったっていう設定なのに波は平らで、葉山でやってるんですね(笑)。海での格闘シーンは大変だったと思うんだけど、申しわけなかったけど、しつこく撮りました。相手の俳優さんは死んじゃったけど。
この映画をつくった人たちで、助監督の青野暉さんはぼくの先輩でまだ元気なんだけど、他のみなさんは亡くなっちゃいました。(フォース助監督の)足立(足立正生)ちゃんは見学に来て、見てるだけじゃなくて手伝えみたいなことになって、道具を担いだりして手伝ってくれました」
星「松原緑郎(松原光二)は3回結婚して、3度目の奥さんがフィリピン人で、お骨をフィリピンに持って行ったそうです。映画で彼を見るとせつなかったです」
藤木「休憩時間によく松原さんにコーヒーをごちそうになって、すごく面倒見のいい方でした。何度もごちそうに(一同笑)」
山際「役者の人たちと話し合ってる時間もなかったですね。出来上がるまで頑張るしかないという忙しさでした。まだ新東宝の人が残っていて協力してくれましたが、その後の『黒と赤の花びら』(1962)で佐川プロはもう撮影所を使えなくなっちゃって、流浪の民ですね。『狂熱の果て』(1961)よりさらに貧乏になって、全部ロケ。ロケバスもなくてタクシーで、ぼくが現金を渡してタクシー代を払ってました。若い人ばっかりで、昔のスターみたいに車で送り迎えとかなかったですね(笑)」
星「いつも貧乏でした(笑)。お給料も遅配でしたね」
山際「組合は四分五裂して、会社はつぶれる。大蔵貢は逃げ出して(笑)どうにもならない状態で、ぼくの精神は鍛えられたと言えなくもないですね」
藤木「ぼくは演技の才能がないというくらい、落ち込みました。素晴らしいチャンスなのに。芝居や映画もたくさん見ていましたから、肩に力が入っていたと思います」
【その他の発言】
藤木「(歌手から役者への転向は)生意気盛りで、自分が歌っていた持ち歌が好きになれなかったんですね。若気の至りでは済まされないんだけど。ジャズボーカルやブルースが好きで、浜口庫之助先生のところにいたんですけれども。渡辺プロに入ってコマーシャリズムで行って、ツイストが日本に入ったころで、それで自分も(多くの人に)知ってはいただけたんですけれども、自分の好みとかけ離れていたということがありまして」
山際「テレビが出てきたということと関係がありますか」
藤木「テレビより演劇に興味があったんですね。生意気ではずかしいですが」
山際「当時は映画が衰退してテレビが出てくる。テレビが映画とは違ったものをやっていくという、ちょうど時代の変化がありました。その中でわれわれも出たり引っ込んだり」
藤木「最後のほうに船で、ふたりぼっちになってしまうところ。ぼくの記憶にはなかったんですが、きょう改めて見てすごくいい場面に出演させていただいた、共演者の星さんは素晴らしかったと再認識しました」
星「藤木さんは上手ですね(一同笑)。もうさっきから口挟めない」
藤木「自分のフィーリングとして、当時も好きだったんじゃないでしょうか。三つ子の魂百までで、その気持ちがぼくの中にあるようです…(一同笑)」
山際「山田健さんのアイディアが、藤木さんの言われたシーンに活きてるし、健さんはだいぶ前に死んじゃいましたけど。健さんにも佐川(佐川滉)さんにも感謝しています」
星「題名も覚えてなかったです。57、58年ぶりに見て、下手だなあと。だから引退せざるを得なかったんですね」
山際「大島渚さんとかが出てきて、ぼくらの年代の映画青年が張り切った時代ですね。いま、ぼくは果たして映画の世界にいるのかしらという感じで、50年以上の時間は長いし、変化も大きかったですね。
1960年代は日本の節目であったわけですね。東京タワーができた後、オリンピックの前という時期が、こういう映画のできる素地としてあった。いまの時代や世界と、似てるところもあるんですね。もうじきオリンピックですし、若者たちも息苦しい。それが、みなさんがこの映画に関心を持ってくれる要因かもしれません」