私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会 “物語のできるまで”(1997)(1)

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 1997年9月25日に、脚本家の山田太一先生の講演がNHK京都文化センターで行われた。講演は小冊子「物語のできるまで」(オムロン)にまとめられており(刊行時に加筆されている)入手することができたので以下に引用したい。明らかな誤字は訂正し、用字・用語は可能な限り統一した。

 

 私の住んでおります神奈川県川崎市では、七〇歳だったか八〇歳だったか、くわしくは忘れましたが、ある年齢になると、市からお祝いの品が届きます。おそらく、どこの町でも、おなじではないでしょうか。長寿のお祝いに記念写真を撮ってくれるところもあるそうです。しかし、歳をとることは、かならずしもめでたいことではありません。「おめでとう」なんて言われたくない状況の方もおられます。

 戦争でたくさんの人が死に、戦後には、栄養失調などで亡くなった方もいました。当時は、薬が手にはいらなくて死ぬこともあったのです。そういう経験をした人にとっては、少しでも長く生きるということはたしかにすばらしいことでした。そのころの映画に「生きなきゃだめだよ」というのがあります。「死んでどうするの、生きなきゃだめだよ」というふうにね。

 

 物語に振り回される現実の悲劇 

 戦中から戦後にかけてつくられた長寿に対する物語――「長生きはおめでたい」という物語は通用しなくなってきました。いまの時代はただ生きているだけではけっして幸福とは言えません。いくつまで生きるかではなく、どのように生きるか、年齢よりもむしろ質が問われる時代です。だから、ある年齢になったからといって一律に「おめでとう」と言われても、本人はもちろん周りの人も複雑な気持ちになります。

 この人はおめでたいかな、おめでたくないかなと、分けて考えるのはめんどうだから、一律に「おめでとう」と言うことになっているのでしょう。けれども、百十何歳のほとんど口もきけないようなお年寄りに、「おばあちゃん、長生きしてよかったね」と声をかけて、「ああ」と答えさせているニュースなどをみますと、あまりに偽善だなぁと思います。

 現実として、「ぽっくり寺」はどこも繁盛しています。「家族に迷惑をかけないでぽっくりと死ねますように」とお祈りされるのです。私もその一人です(笑)。家族に迷惑をかけずに死ぬことがむずかしい時代です。現実にはそのような複雑な状況があるにもかかわらず、いったんできあがった「長生きはおめでたい」という物語は、なかなか消えない。

 このほかにも、現実と物語とがあまりにもちがいすぎるという状況は、いまの日本の社会にはたくさんあります。たとえば、「いきいきしている」ことを、日本人はとても高く評価します。しかし、歳をとると、そうそういきいきなんてしていられません。第一線から退いて、二次的、三次的な存在になってゆくものです。それなのに、いつでもいきいきしていなきゃならないという圧迫があって、日本人はつらいと思います。

 中国やインドでは、「いきいきしている」ことをかならずしも善しとしない価値観が、常識としてあります。言われてみればなるほどそうで、「いきいきしている」ということは、見方を変えれば、軽佻浮薄だとも言えます。

 たまに病気をしてベッドで寝ていると、風の音や植物の変化などに敏感になります。自分の人生についてじっくりと考える時間もできます。いきいきして飛びまわっているときには、目の前のことにまぎれて、そういうことはあまり考えません。いきいきしているときだけでなく、いきいきしていないときの素敵さも評価しなければ、年寄りはたまりません。

 子育てについての物語にしても、現実とはあまりにちがいすぎます。子どもは生まれたときは白紙であって、そこにどのような絵を描くのかは、親の責任だといわれます。三歳までにはある程度のことをきちんとしつけておかなきゃだめだともいわれます。親は子どもに対してとても大きな責任を負わされていて、たまったものではありません。

 しかし、私たちが生きている現実はそうではありません。だいいち、そんなことをいったら、現在おとなになっている方の大半は手遅れです(笑)。そんなていねいな教育を受けた方は少ないと思います。子どもは生まれたときからすでに、一人ひとりが濃厚な個性をもっています。顔や性格、体質などは一人ひとりちがっていて、白い紙に絵を描くというようなものではありません。ところが、世のなかには、現実とはかけ離れた物語が流布されている。

 もっと根源的なことでいえば、「合理的なものは正しい、合理的なものは真実である」という考え方にしてもそうです。裁判の判決などでは、真実とはちがっていても、結局は理屈のあっているほうに有利な判決がくだされるという一面がありました。ある時代――一九世紀、二〇世紀はそれでもよかったかもしれません。しかし、「合理的なものは正しい」という物語は、現実の社会とはあわなくなっています。

 推理小説は、字義どおり、論理的に現実を推しはかるものですから、合理性を欠いたものはリアルではないといわれます。しかし、現実の社会の人間は、ちっとも合理的になんて生きておりません。たまたま読んだ本のなかに、次のような物語が載っていました。

 中国の衛という国の王さまに仕えるお稚児さんのなかに一人のきれいな男がいました。その男は、お母さんの危篤の報せをきいて、君主の車に乗ってお母さんのもとにかけつけたそうです。君主以外の者が君主の車に乗るということは、その国ではたいへんなタブーでした。ほんらいなら処刑されてもしかたのないような無礼な行為だったのですが、王さまは男を罰するどころか、「親孝行なことだ」とほめたそうです。ところが、それから数年して、その男がほんのちょっとした間違いをしたときには、すぐに処刑してしまった。

 つまり、君主の車を使ったときには、男が親孝行だったからではなく、若くてきれいだったから許したのです(笑)。この程度のことは、現実の社会ではいくらでも行われております。たとえば、マザー・テレサとダイアナさんとでは、葬儀の扱いがちがいすぎるのではないかと批判する人がいますが、そんなことをいってもだめなんです。人間というのは、互いの功績を合理的に計算して、そのとおりに評価しているわけではないのです。時の勢いや感情など、いろいろな状況が複雑に関わり合っているなかで生きているのです。つづく

 

 以上、冊子「物語のできるまで」より引用。