私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 トークショー レポート・『月日の残像』(1)

 脚本家・小説家の山田太一先生が季刊誌「考える人」(新潮社)に長年連載したエッセイが、『月日の残像』(同)にまとまった。

 123日に発売を記念して、山田先生と「考える人」の元編集長で小説家の松家仁之氏のトークショーが行われた。主に松家氏が山田先生に質問するという形式であったので、本欄では山田先生の発言に絞らせていただきます。また最近の講演でも触れられた話や、エッセイのねた割りになる話題は割愛しました(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや、整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。 

山田「メールもネットもやらないし見ないし、全く知りません。メディアが進歩してもついていく歳でもないし、もういいやと。(自分が)野蛮人みたいだという思いがあります(笑)。

 どんどん衰えてますから、午前中仕事すると午後はくたびれちゃう。だから午後は手紙の返事を書くとか人と会うとか。それと毎日1時間半くらい、うろうろしていますね。喫茶店に入ったり。スーパーへ行くのが好きで毎日行っています。野菜の値段がよく判る(笑)。

 それだけで一日いっぱいで、そこにメールとかあるとストレスになっちゃう。自分の作品の反響とかほとんど知らないです」

 

 山田先生は母や兄など家族を何人も亡くしている。

 

山田「家族が若いころに死んでますんで、親父はぼくが肺結核になることを恐れてタバコを吸うなって言われて。

 映画界はみんなお酒のみですごくて、監督になるとスタッフと酒飲んだりするし。ぼくはそういうの全然愉しくないんです。それでこういう仕事をして、これまでいろいろな人のお世話になって何とかやってきたんですけど」

 

 山田先生は、昨年没後30年を迎えた寺山修司とは早稲田大学での友人であった。

 

山田「寺山さんは若いころから書体が完成していました。ぼくの大学のとき(に書いたもの)はいまとは違いますね。寺山さんは天才でぼくはゆっくりやってきたというか。

 いろいろ青くさいことを議論して、大抵は本からパクってきて、相手がそれを読んでいないことを期待して自分のことみたいに喋る(笑)。寺山も同じことをしてて、彼は一時期真似っこと言われましたけど若いときはそういうもので、引用というのは読み込まなきゃできないし、引用して自分をつくっていくというところがあるんじゃないかな。

 寺山さんは韻文、短歌が素晴らしくて、それでぼくは散文へ行こうと思いましたね、天才と出会った災難というか(一同笑)」

 

 かつて山田先生は、小説『沿線地図』(作品社)を刊行。1979年に自らの脚色でテレビドラマ化した。

 

山田寺田博さんって方が河出書房新社をお辞めになって作品社を立ち上げるとき、中上健次さんの作品を出されると。それだけじゃ営業的に心配だから、ぼくみたいなテレビの人を入れようってなったのかな(笑)。

 寺田さんといっしょに(舞台のひとつの)電気屋さんを取材しました。それで『沿線地図』を書き下ろしで出して、すぐドラマにしたんですね。

 寺田さんは博徒ですけど、ぼくは寺田さんみたいに文壇バーへは行かないし、だからどうしてぼくなのか。あいつに書かせればドラマになるだろうって、その一点ですね(笑)。

 普段、原稿の打ち合わせとかはしますけど、ぼくはバーへは行かないし、ほっといてって感じですね(笑)」

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 『沿線地図』の主題歌はフランソワーズ・アルディ「もう森へなんか行かない」。

 

山田「TBSのプロデューサーで当時は助手さんでしたけど、片島謙二さんって方が、いろいろな曲を知ってるんですね。3人くらいのアーティストのカセットテープを、どれがいいですかと送ってくる。これしかないと、何か(こちらが)誘導されるような選び方なんですが(笑)。(『ふぞろいの林檎たち』〈1983~1997〉の)サザンも片島さんですね」(つづく