私の中の見えない炎

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チロリアンワールドへようこそ・『チロルの挽歌』(1)

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 定年を前に自分を変えたくて、北海道でのテーマパークの仕事に志願した鉄道技師(高倉健)。炭鉱閉山で人口が減った町の再生を図るプランだった。彼はその地で、別れた妻(大原麗子)と奪っていった男(杉浦直樹)に再会する。

 高倉健NHKドラマに初出演した『チロルの挽歌』(1992)は、高倉にとっても15年ぶりのテレビドラマの仕事だった。NHKBSプレミアムにて久々に再放送されるこの大作に関して当時の記事をいくつか引用したい。

 高倉主演のスペシャルドラマの脚本が山田太一に依頼された。

 

まだバブルがはじける前だけど、僕はリゾート開発に絡んだドラマをやってみたいと思ってた。というのも、その頃計画されていたリゾート計画を全部実行すると、国土の三分の一がリゾートになるって馬鹿な話を聞いて、これはいくらなんでもどうかしている。でも、僕はグローバルなものを書く気はありませんから、そこは、思いがけず開発に巻き込まれた人たちを書いてみようと思って取材を始めていたんです。そこへNHKから、高倉健さんドラマ出演の交渉をしてるんだけど、書く気があるかときたので、そりゃもううんとやる気があると答えました。で、進めていた材料に健さんが入ってきたらどうなるか、ということでドラマをだんだん作っていったんです」(「広告批評」1992年6月号)

今回のドラマでは、産業の中心が生産からサービス業に移ったことなどによる価値観の変化も、大きなテーマになっている。

 山田は「以前の日本人のように無口でいれば済む、という美意識も崩れてきた。時代がそのように動くことの寂しさを、健さんには自然に演じて欲しい」と訴える。

 脚本には、高倉ふんする主人公が事業の交渉の際、あまりに無口なため、周囲から「もっと話してくれ」と求められ、早口言葉を練習する一コマもあるという。無口な印象が強い高倉に脚本の山田が、まさに “挑戦” を仕掛けた形だ」(「読売新聞」1991年6月4日)

「時代の感覚が随分変わって、五十代になって、それまでの行き方原文ママのスタイルを強引に突き崩されていく、あるいは自分の内部からも変えなければならないとつらい思いをしているのではないか…」と現代の一断面を切り取ってみせる作品だ」(「読売新聞」1991年9月30日)

 

 高倉の久々のドラマ出演は当然注目を集めた。

 

制作発表で約五十人の報道陣に囲まれ、立ち上がって深々と頭を下げるなど、緊張気味に見えたが、「ずっと出なかったのは、お声が掛からなかったから。こちらから「出たい」とは言えませんから」と笑い、自ら雰囲気を和らげた。

(中略)

 収録は七月中旬の北海道ロケから始まり、来年二月まで七か月がかりで進められる。三人の共演者は、昭和四十年代に東映網走番外地』シリーズで共演しており、「もう一度『網走』が始まるようだ」(杉浦)と、早くも息の合ったところを見せている」(「読売新聞」1991年6月4日)

 撮影は1991年夏にスタートして、冬で一旦中断。その間に高倉はアメリカ映画『ミスター・ベースボール』(1992)に参加。大原麗子もインターバル期間中に単発ドラマ『それからの冬』(1991)に主演しており、こちらも山田脚本だった。『チロル』の撮影中に話が進んだと思われる。

 

根っからの映画人である高倉にとって、映画とは違ったテレビの撮影手順が「どうもなじまない」ということは確かなようだ。

「スタジオに何台ものカメラが並んで、どこから撮られているか分からない。何より監督さんも離れた副調整室にいて、マイクを通して声が聞こえてくる。テレビっていうと、ぼくにはそんな機械的なイメージがあって…。映画の撮影だと、いつも監督さんがそばにいて安心感がある。ひとつの演技が終わると、すぐ監督さんの表情が分かる。満足しているか、いないのか。それが人間的に感じられて、好きなんです」

 今回の撮影では、こうした気持ちを考慮に入れて、高倉の魅力を半減させないためにも、きわめて映画的な手法で行われた。カメラは、ロケでもスタジオでも1台だけ。スタートの合図もブザーでなくカチンコ。監督も常に現場にいた。その心遣いに、高倉は感激したようだ」(「朝日新聞」1992年3月13日)

ロケは芦別市。北海道にはさまざまな思い出があるだけに、昔の炭鉱町が観光施設を誘致する現実は、感慨深かった。「町そのものが必死でもがいている感じで、それが僕の役と重なる。自分自身も含めて、時の流れ、時代の変化を思い知らされた」(「読売新聞」1992年4月3日)

初のNHK出演については「ていねいな仕事ぶりで、どうかすると映画すら追い抜かれるのでは」と語る高倉」(「毎日新聞」1992年2月11日)(つづく