【テレビ黎明期の想い出(2)】
今野氏は、村木良彦らと制作者集団・テレビマンユニオンを創立した。
今野「村木が制作現場から外されてフリーランスになるかって同期の吉川正澄に話したら、ひとりで辞めるより何人かいっしょで集団をつくろうってことで、それでぼくに電話かかってきて入らないかと。ぼくもいいよって言っちゃって。TBSには辞めてくれてよかった人もいただろうけど(笑)。
映画だと自主上映ができるけど、テレビは放送局から流れないと打つ手がなくて、成り立たない職業ですよ。20人以上で一度に辞めたんだけど、当時のTBSの新しい社長がアメリカのテレビ界を調べてて、プロダクション制だと。日本もそうなるだろうということで、タイミングもよかった。いまのような貸しスタジオもなくて、辞めちゃったからテレビ局も使えない。そこでテレビの中継車を使って番組をつくるしかない。高いのでテレビ局から中継車を貸してもらって、中継車を貸与して資本金の一部を負担すると約束してもらったんです。
実相寺のところに電話したら「おれも辞めることに決めた」と。全くお互い知らずにね(笑)。実相寺もコダイグル-プを組織してて」
中堀「映画の準備をしてた」
今野「こちらは辞めようとしてて、会社も方針を変えようとしてて、いろんなタイミングが偶然合った」
【生放送のエピソード】
中堀「「あなたを呼ぶ声」(1962)はカメラをバラバラにして撮像管だけにして、変なとこ触ったら感電死しちゃうくらいばらしてある」
今野「カメラの胴体があって、フェデステルっていうのがあって、下にちっちゃい車がついてる。手持ちにしたいときはその車を外すんですが、外すと40キロぐらい。路地に入って行ったり。カメラが不自由で、何とか映画並みに撮っていけるように。実相寺もそうだけど、テレビがただ撮れるだけじゃなくて映画みたいな角度でってなると、みんな競争みたいにいろんなことをやり出す」
中堀「ミッチェルは70キロで、しごきで担いで富士山登れとかバカなことやってたね。その時代のカメラマンは8割くらいぎっくり腰(一同笑)」
今野「カメラをぴたっと停めるのが難しい。(生放送で)カメラは3台で(カメラマンは)セットからセットへ移動するけど、ぎりぎりまで撮って、すっと飛んでかなきゃいけない。飛んでって3秒も経たないうちにスイッチが入ってくる。飛んでってから定位置でカメラをぴたっと止めるのは、ものすごい力がいる。繊細でないと(笑)。ぴたっと止めるだけじゃなくてレンズも合わせる。30分で生やると死ぬほど疲れるという」
中堀「コードを捌くのも大変で、3台のが入り乱れちゃう」
今野「しょっちゅう見切れてました。スタッフが出ちゃうことを特別出演と言ってて(一同笑)略して特出。誰が特出かでみんな戦々恐々としてて。ぼくは音楽番組でADやってたんですが、ディレクターが稽古場で踊りとかを見ながら小節でカットを割ってくんですね。スタジオでリハーサルをやるんですけど、そのころはワイプが使えなくて、だから波型のガラスをカメラの前で通す。通ってるところに違うところへぽんと(画面が)行く。通すのがADの仕事で、ガラスを持ってカメラのところへ行って、すっと通す。本番ではリハーサルとカメラ割りが変わってて、ぼくが歩いているカメラの引きの画になったんです。それでダンスを踊ってるところを、作業着でサンダルのきたない男が画面を通過してくのがもろに映った(笑)。終わった瞬間に「お前!」。頭真っ白になってスタジオ飛び出して屋上行って頭冷してたら「本番中にいなくなるな!」とまた怒られた(笑)。
生でキューを出すとき、役者さんに手で合図するけど」
中堀「実相寺監督はずるくて女優にタイミング出すときに「手を握るからぎゅっと力が入ったら出てくれ」(笑)」
今野「ADはキュー出しに苦労する。タイミングで台本を出す人もいたけど、投げちゃって画面の中に台本が落ちて来たり(笑)。
音楽番組もクイズも、ADは何でもやらされましたね」
中堀「会社のそばの旅館(赤坂旅館)に泊まってたと」
今野「会社が指定旅館にしてたんですね。何か月も暮らしてる奴もいた。ぼくは7月まで研修で8月から現場に出されるけど、そこから700日休みがなかったです。元日も会社で、週に何本もADを。下宿に帰ることもありましたけど。いまよりらくだったのは、生放送で10時ならそれで終わり。その後(の時代)は撮って編集するようになったから、徹夜もあるけど。生はどんな失敗があっても、撮り直しなし(笑)」
終了後にサイン会があり、中堀氏は今野氏の『宮澤賢治の真実』(新潮文庫)を取り出し、今野氏は「それは読むのが大変(笑)」と応じていた。