私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

寺田農 × 油谷岩夫 トークショー レポート・『実相寺昭雄見聞録』(1)

 『ウルトラマン』(1966)や『ウルトラセブン』(1967)、『屋根裏の散歩者』(1992)などの実相寺昭雄監督に関して、貴重な証言を集めた『実相寺昭雄見聞録』(キングインターナショナル)。その第二集の発行に合わせて、実相寺作品の常連だった寺田農氏のトークショーが2023年5月に行われた。実相寺監督と長年組んでコンサートなどの仕事をした油谷岩夫氏が聞き手を務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

寺田「きょうびっくりしちゃった。この雨の中をみなさん、よくぞ…。相当変な人ばっかりですよ(一同笑)。普通の人は来ない。いくら前もって予約してても雨だからやめとこうとか。私は仕様がないから厭でも来るんだけど。

 私も80を過ぎましたからね。いつ死んでもおかしくないのよ。実相寺ファミリーも年とともに少なくなるね」

 

【若き日のテレビ局時代 (1)】

寺田「実相寺が喋っているのはほとんど嘘です(一同笑)。まともなことを言ったことがない。その場しのぎが多いんですね。あんまり真剣に聞かないほうがいい。

 本人が書いたものとか実相寺について書いてるものとかを読んでいると、最初から映画を志していたと。これは嘘だね(一同笑)。最初は外交官を目指していたと思う。お父さんも外交官で、東京で生まれて青島で育って、早稲田の仏文で(在学中に)外務省の暗号課みたいなとこに行って外交官の二級試験に受かる。フランス圏の外交官になりたかったけど、当時はフランスの植民地はアフリカが多かったから、二級試験はアフリカに行くとこが多くて花のパリではないと判って、急遽テレビ局に。映画会社は受験資格がなくて、フジテレビは落ちてTBSに入った。のちに聞いたらなんかコネがあったんだね」

油谷「コネがないと試験自体が受けられなかったそうです。同じ期の並木(並木章)さんもおっしゃってましたので間違いない」

寺田「そういう形でテレビに入って、確信的にドラマや映画をやろうというわけではなく、その場でのらりくらりと上手に立ち回ったんじゃないですかね」

油谷「立ち回りはほんとに上手かったようです。干されても四面楚歌ではなくて、有力な人が助けてくれる。運も良かったんでしょうけど」

寺田「愛嬌があったというか」

油谷「愛嬌がなければ締め殺されてた(笑)。貶すようなことを言っちゃうんですが、近くにいた者の親愛の情ですね」

寺田「天才たるゆえんを知ってればね、われわれがどう貶そうが何しようがかまわないのよ。あの人は神みたいなもんですからね。

 (初めて会ったときの)実相寺は局のお仕着せのジャンパーを着て、髪はまだ少しあったんですけど、大道具さんかと思ったんですけど。紹介してくれたのは久世光彦さんで、久世ちゃんはものすごくおしゃれだった。花形テレビディレクターという感じで。実相寺にはのちに私の着るものを随分持っていかれましてね、体型も似てるんですよ。上着とかセーターとかしょっちゅうあげた。ただ悔しいのは、私も足が短いほうではないんだけど、実相寺は私のズボンではつんつるてんになっちゃう。実相寺のフルショットの写真を見ると、バランスが悪いんですよ。足だけ石原裕次郎みたいに長いの(一同笑)。耳はでかいし、あの人自体が怪獣みたいな存在でしたね。

 (後年の)『帝都物語』(1988)かなんかのロケで、昼休みに上野で実相寺がショッピングバッグを持って歩いてたら、おばさんが「こっちよ。遠慮しないでいらっしゃい。こっちよ。大丈夫よ」って。救世軍のカレーの無料配布。ホームレスだと思ったんだね(一同笑)。本人は「おれを誰だと思ってる!」と怒ってたけど、そういう格好してるんだからね」

油谷「実相寺監督はTBS時代に何回も干されていますね」

寺田「ひとつやるごとに干されると(一同笑)。ドラマのほうにいたのが音楽へ行って干されて、それで中継に行ってそこでも干されて、最後に私といっしょにやったドラマで『でっかく生きろ』。大人しくしてればいいのにそこでも干されて、円谷プロに出向になる。円谷英二さんには大変な尊敬の念があったね。円谷一さんはTBSの先輩で、干されてても拾ってくれた。実相寺は(円谷の)土壌に合ったと思いますね。(最初は)怪獣物をやろうとは思ってなかっただろうけど、臨機応変にその場その場で自分を出していこうっていうのがあったんでしょうね」

油谷「実相寺監督はまめというか、記録魔なんですね。そのおかげで初期のテレビ番組なんかも見ることができるんですが。日記にもいろいろ書いてあって、給料の明細書も貼り付けてある。1966年の2月分。フランスに休職して3か月パリに滞在したのがこの年の1月までで、1月の給料袋を開けたら給料がなくて源泉徴収の明細だけが入っていたと日記に書いてあります。2月はもらったようです。手取り43100円。ちなみに私が大学に入ったぐらいのころで学生食堂のかけうどんが20円でした」

寺田「43100円は当時としてはいいんだろうね」

油谷「よかったでしょうね。この少し前に初任給を歌った歌謡曲がありましたけど、13800円ぐらいで(笑)」

寺田「実相寺が辞めたときの退職金はかなりあったよ。テレビ局は、いまもいいんだろうけど高かったんだね」

油谷「1970年に退職で在職11年。途中に休職してますし、普通そんなにはもらえないですよね」

寺田「実相寺がいくらもらったかなんてしみじみ聞いてもね(笑)」(つづく