【佐々木守と実相寺】
今野「『ウルトラマン』(1966)などで実相寺はずっと佐々木守と組んでたんですね。ぼくは佐々木守とは『七人の刑事』(1961〜1969)をやってて、外で犯人追っかけるシーンはフィルムで、取り調べるのはスタジオでした。佐々木守を通じて消息は判ってて、本社で会ったり。彼はフィルムが好きだから、せっかく映画部に行けてチャンスなのに『ウルトラマン』(1966)で、腐ってるんじゃないかと思ったんだけど。
『おかあさん』(1959〜1967)の脚本は大島渚、石堂淑朗、田村孟で後に創造社をつくるメンバー。まず観念が先にあってストーリーをつくる人たちですね。佐々木守は大島の一派に入ってるけど、その3人とは肌合いが違って、簡単に言えばくだらない話でもおもしろくできる(笑)。ぼくが佐々木守と知り合ったころは、1週間に7本もレギュラー番組を書いてましたよ。下宿に行くと、30分番組を2~3時間で書いちゃう。佐々木守とつき合うようになって、実相寺も変わったんじゃないかと思うんです。
大島さんのホンの1作目で実相寺はどれほど映像の才能があるかを見せつけたけど、座談会で大島さんはぶつくさ言って素直に誉めなかった。自分の映画的なト書きを無視されたのが腹にあったのかなと。同じ座談会で佐々木守は、大島渚の映画に衝撃を受けたのは判るけど映画の人間に脚本を頼むというのは気に食わないと、平気で言ってるんですよ(笑)。つまり大島や石堂淑朗、田村孟は映画人ですから。おれといっしょにやろうよ、何でおれのところに来ないんだと(笑)。だから佐々木守は実相寺と仕事をするときは、同世代の才能がある奴ということで張り切ったと思いますよ」
中堀「実相寺監督は大陸で、佐々木さんは福井。小学3年生まで砂漠にいた人が、とことん日本の田舎にいた人とうまく出会ったというのもあったのかな。自分のわかんないことを佐々木さんは判ってると」
【実相寺と中国(1)】
今野「ぼくはTBSの広報誌にテレビ史を連載して一冊の本にまとめるときに(『テレビの青春』〈NTT出版〉)改めて全員に生い立ちや何でテレビ局に入ったのかとか聴いたんですね。村木(村木良彦)とか並木(並木章)は早稲田の映研で、映画会社がダメそうなんで行くのをやめたと。実相に聴いたときは東京芸大演奏センターの教授になってた」
今野「満州での、終戦のころについて聴きました。小学3~4年で、そこでの体験があって、敗戦で日本を初めて見る。ふたつが重なっての虚無感。『ウルトラマン』見ても、どっかにニヒリズムがありますよ。あまり口にしなかったけど、虚無感がのちの映画には色濃く現れてて、テレビドラマ時代とテレビ映画時代と映画の時代とで人が変わったみたいなところがありますね。最後のほうでは、少年時代の世界観が出てきたというか。初期のドラマでは彼のそういう面に気がつかなくて、大島渚に頼んじゃったら出てこない。大島や石堂淑朗、田村孟は階級的な、貧しい人間と金持ちの人間との矛盾を直さなきゃいけないというところで一致してる。そういうところでドラマをつくってて、ニヒリズムは敵だと思っているんですよ。新しく生きる主人公をつくろうとしてる」
中堀「映画で石堂さんに、登場人物のひとりに中国からの引き揚げ者を入れてくれないかと言ったけど、よく判らないからと(断られた)。おれらから見れば自分で書けばいいと思うんだけど、思いがあまりにも強くて。仕事があっても、中国には行かなかったですからね。文化大革命の次の年にJALと中国民航のコマーシャルの仕事があって、引き受けたんですよ。そしたらひと月前に降りて、下山善二とおれに行けって。31日間いたんですけど、帰りの列車で、監督の育った張家口だって何となく判ったんですよ。夜中だったけど監督に見せようってカメラ持って降りたら、ホームだけで何にもないの。駅名だけ撮って、帰ってから見せようとしたけど、一切見たくないと。
テレビマンユニオンの『オーケストラがやってきた』(1972〜1983)のジャズの回のときだけ、上海に行ってるんですよ。街が全く変わってないなって言ってて、監督が彫刻刀で彫ったというところがあって、行ったら残ってた。それくらい記憶もはっきり。ただ全く語らなかったね」(つづく)