【実相寺と中国(2)】
中堀「上陸用舟艇で帰ってくるときは畳一畳で6人で寝た。「日本が見えたぞ」ってことで出てきたら、九十九島でいまのオランダ村で、いままでは砂漠だったのに全部緑で箱庭の中みたいだと書いてある。降りるときにDDTを撒かれちゃって、とか。
ただ張家口会ってのが埼玉にあって、晩年にはやりとりするようになるわけ。亡くなる前に病院で(映画化を練っていたのが)『光』(小学館)という本で、黄河で育った人が看護婦の勉強をするために日本に来るという話で記憶喪失の宇宙飛行士がその人に看護される。「おれはこんな状態で行けないけど、ロケハンに行ってくれ」ってことで、黄河の太陽は砂ぼこりで黄色に見えるらしいから見て来いと(笑)。「お前らが黄河に行ってるときにおれは青島のホテルで待ってるから、戻ったら打ち合わせをしよう」と言うんです。自分の原風景は青島だって書いてるし、ドイツがつくった街だから綺麗で、そこで当時はまだ優雅な暮らしをしてた。
だんだん歳とってくると中国のことが…。おれには言わなかったけど。若いときには、あれだけ日記があっても書いてない」
今野「後年も全部は語ってはないけど、終戦のときに相当ショッキングなことに出会ったらしい。人間が信じられなくなるような、すごい事件があったと。大体、想像はつくんだけど」
中堀「こないだ張家口行こうと思ったら、冬は寒くて行けない。軍事的に大事な町で大平(大平正芳)さんも当時はいて、下手に行けないくらいなんだけど」
【テレビ黎明期の想い出(1)】
今野「(同人誌「DA」)創刊号では、実相寺は「テレビドラマ万歳」と(一同笑)。外務省を舞台にしたドタバタ喜劇のシナリオで、最初からお役人をからかってる。
テレビの現状は悪くて、制作条件もつくり手の演出的な未熟もあって、こんなことでいいのかと新入社員だけでも(同人誌で)声を上げようと。出したら各テレビ局の若手、和田勉さんとか後で活躍する人たちがみんな会いに来ましたね。映画界からは森谷司郎さんが助監督でしたけど来た。大したこと書いてないんだけど、みんなで集まって声を上げたというのが。この雑誌がもとになって横の関係が生まれたってことはありましたね。NHKの和田勉さん、日本テレビの石川一彦さんとか。ほんとに草創期ですね。
運命は面白いもので(入社)3年後ぐらいの1963年にみんな企画書を書かされるんだけど、ぼくの全5本くらいのドラマシリーズの企画が通って、ぼくは(まだ新人で)ディレクターはできないけど、お前は企画したんだからADをやれと言われて。非行少年を扱う簡易裁判所の調査官が主人公。撮ってもいつ放送するか判らない自主企画で、まだ1本も撮り上げる前にディレクターがいつ放送するか判らないなんてって投げ出しちゃったんですよ。それでぼくひとりだけで5本つくることになって、つくったんですね(『太陽をさがせ』〈1964〉)。主演は佐田啓二さんで、大スターだけどテレビに出るっていうことで。(完成後に)放送の見込みはなくてぼくは夏休みだったんですが、佐田さんが自動車事故で亡くなった。急遽、遺作になるかもしれないんで5本を放送することになって、編成局長が見て、放送後に部長に「編成局長が今年の芸術祭は今野にするって決めた」って。ぼくの世代では、芸術祭の担当は村木か実相寺かと思ってた。
テレビのよさというのは長いカットでも簡単に撮れちゃう。フィルムで1~2分撮るのは大変ですが、テレビなら現像の必要がないので1時間でも撮れる。フィルムは余計な時間や空間を嫌って、これだけが必要というのを拾って次々つないでいく。例えば立ち上がって部屋から出ていくなら、立ち上がった瞬間を撮って、次はドアを開ける瞬間で間を省略しちゃう。それでもみんな判るけど、テレビカメラはまだ生放送で編集できない。ずっと撮ってなきゃいけない。この無駄な時間が映画にかなわない。ただ人間は歩くだけでも、癖とか歩き方がある(笑)。(テレビの)無駄なところに間があって、行動や仕草に不思議なリアリティが出てきた。マイクの性能もよくなって日常的に喋る声が録音できるようになった。一方で映画のブームは機材が古くて、俳優は日常よりも声を張ってくれと言われる。アフレコも多くて、後で合わせるわけですから日常的な会話が捉えにくかった。テレビならリアルな間や自然な会話ができると、ディレクターたちは気がついたわけですね。
NHKの吉田直哉さんは『テレビ、その余白の思想』(文泉)って本を出してて、映画が切り捨てた余白をテレビは利用すると書いた。和田勉さんは一度もロケしたことがないと。セットだとリアリティーがなくなるから、小道具とかの物だけは本物。彼はアップを撮ることでリアリティーを出した。TBSのぼくらの先輩の大山勝美は、外のロケではフィルムでなくて中継車。あれは大変なんですが、そこまでしてフィルムで撮らないとこだわったんですね。テレビの映画への対抗心はそれくらい強かった。テレビの人間たちが映画を撮りたかったというところもあって、フィルムで撮ったら映画に屈するみたいな。またテレビカメラの不自由さも新しい表現になると、われわれの世代は気づき始めた」(つづく)