私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 講演会(フェリス・フェスティバル '83)(1983)(6)

 学生時代、寺山修司と友達だったそうだけれども、彼についてどう思うかというお話でしたが…。

 これは同級生だから知りあったんで、本当に自然発生的な友達ですよね。全然関係ない人間が求めあって、どこかで会ったというんじゃなくてね、同級生で仲良かったんです。今出てる「現代詩手帖」で、伊丹十三さんと対談してるときにちょっと言ったんですけど、お読みになっていない方が多いと思いますので、ちょっと言いますと…。

 地下鉄の丸の内線が開通して間もなく、まだがらがらだったんですね、あんまり乗る人いなくて。地下鉄のそういうのが開通したら乗ってみようって、寺山とふたりで乗ったんです。多分学生の頃だと思うけれども、端に乗ってずーっと走ってる電車の中を、ドアを開けちゃ後ろの方へ歩いて行ったんです。そうしたら、途中からね、車掌さんが追っかけて来たんです。「もしもし」と言われて、「この地下鉄は車両から車両へ移っては困るんです」と言うのね。そうしたら、寺山がせせら笑ったわけね。僕は笑わなかったのね。「すいません」と言ったのね。「ああいうところでせせら笑うのは、僕は気に入らない」って寺山に言ったのね。「向うはね、仕事で嫌でもそういうこと言えって言われてるからやってるんで、言えって言って。つまりダサいことをしている人間をせせら笑う資格はおれにはない」とか言ったわけね。「そういうふうにせせら笑うっていうことは、これからの社会へ出ての現実を知らないんでね、ただ自分だけの、自分は車掌になっている人と違う存在だと思ってる。もし自分も車掌になったら、きっとおんなじようにダサく追っかけてね、「そこ通っちゃいけません」って言うに相違ないから、僕は笑わない」って言ったのね。で、「現実を知らない!」って寺山に言ったら、「現実って何よ」って彼が切り返したのね。それがすごく堪えてね。そうだな、自分は現実だとなんとなく思い込んでる、厳しいのが現実だとかね。言うことをきいて、駆けて来て、「すいません。そこは通らないで下さい」と言わなければならないと思ってるのが現実だと思ってるけど、そんなのはただ一種の先入観、固定観念であって、現実って本当は何だかわからないなと思ってね。ものすごく僕は自分が実に小市民的な下らないことを言ってしまったと思って、すごく恥ずかしかったのね。顔が上げられなくなってね、ずーっと黙ってたのね…。そういうふうにね、彼は「“言葉使い”になる、“魔法使い”みたいに“言葉使い”になるんだ」と前から言ってたのね。言葉の使い方がものすごくうまいのね。言葉をナイフにするんだ、言葉で刺すんだというのね。僕は親友だったから、しょちゅう言葉で刺されてたようなもんだね。それによって、僕は段々事実にむしろ拘るようになってきた。彼の方は夢を見るようにどんどん広がっていくでしょ。イメージで広がってくでしょ。僕はそうじゃなくて、彼に対抗するためには事実に修するしかないみたいなところが、段々できてきたとこありますね。ですから、「君はつまり想像力をものすごく広げていることを自慢しているけれども、それは想像力じゃなくて、現実の支えのない夢であって、僕は現実の支えのある想像力を広げるんだ」と言ったことがあるけれども…。

 ですから、非常に違う友達でした。ものすごく違う友達で…。ただ手紙をうんと書き合って、「ペーパームーン」かなんかの特集にふたりの手紙を寺山が編集したやつが採用されてますけど、それはごく一部でね、すごく毎日書き合ったんです。会ってしゃべるでしょ。しゃべって別れるとね、その続きを手紙に書いたんです。それで、翌日会ったら手紙を両方で渡し合って読んで、読んでから議論を始めるみたいにしてね…。沢山手紙があったんです。それで彼がね、新書館とかいうとこで女の子向けに、ふたりの書簡載せたいから、俺が出した手紙返してよという風にね…。それで、ダンボール一杯ぐらいを彼に「貸すぞ」と言って渡したんです。で、彼がその中から、僕の手紙は自分が持ってますから、選んで、新書館の女の子向けのに載せたんです。で、それっきりになっちゃってたんですね。死んでから、その往復書簡を出しませんかという話ができてたのね。あ、ちょっと自分たちの青春の記録でもあるしと思って、「いいですね」と言って。この間出版社の人が寺山のプロダクションの、前の奥さんですね、九條映子さんの所へ行ったら、いくら探してもないと言うのね。それで、なくなっちゃったわけはない。きっとどっかにとってあるはずだけれども。まあ、今他人になってしまってますよね、離婚してますから。そこをお母さんどけと言って探すわけにいかないので、今んとこなくなっちゃってんですよ。

 でも、非常に僕は彼とつきあったことで、自分が何かということがよくわかったしね。あんまり気が合う友達というか、気は合ったんだけれども、ちょっと違う友達とつきあうということは大事ですね。それから、批評し合う関係、そういうことはとても大事だと思いますね。彼の活動はというのはすごく僕と違いますからね。ただ芝居見て批評して、感想を言うという関係しかありませんでした。それ以上の関係というのはちょっと僕たちの関係では無理でしたね。ただ、『早春スケッチブック』をすごく好きでね、寺山が。毎週終ると電話くれるんですよ。どうも山崎努を自分と重ね合わせてた気配があってね。僕のことは河原崎長一郎だと思ってて、「そんなの失礼だ」って言って…。終りの頃になって、「悪いけどこの作品、最後に山崎努死んじゃうんだよな」って言うと、「わかってる」って言うのね。彼の病気非常に悪かったですから、それで、「変な気にならないでね」なんて言ったら、「ならないよ」と笑ってたけれども…。終って、「『ふぞろいの林檎たち』のシナリオを2回分ぐらい読んだよ」って電話がかかってきて、放送のときはもう死んでます。

 まあ、本当に個人的な友達でした。皆さんも友達をひとりかふたり…。沢山友達がいるなんてことはあんまり必要ないと思うのね。ひとりぐらいすごく大事な友達がいるということは、自己形成に大変いいと思いますけどね…。

(中略)つづく  

 

 以上「フェリス・フェスティバル '83」の冊子より引用。