私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

土井たか子の晩年の一瞬

f:id:namerukarada:20200202010758j:plain

 社会党委員長、女性初の衆議院議長などを歴任した故・土井たか子。その土井が表舞台を去る直前に、筆者は顔を合わせる機会があった。

 土井は2005年に第44回総選挙にて落選して、事実上政界から引退していたけれども、護憲の講演活動で精力的に全国各地を回っていた。筆者は、その当時入社した会社の関係で、土井が代表を務めていた“アジア人権基金”にまずお使いに行ったが、その際も土井は地方出張中で不在だった記憶がある。

 やがて勤め先の関係で某イベントの下働きのスタッフをした筆者は、出席者のひとりだった土井の姿を生で見た。土井は既に78〜79歳だったけれども、タクシーの運転手さんと話していたら盛り上がって運転があぶなかったなどとハンドルの身ぶりも交えて語り、笑いをとっていた。筆者はごく幼いころ、社会党委員長として時の人だった土井がテレビのニュースのみならずクイズ番組にまで登場していたのを目にしており、なつかしい思いに駆られた(著書『せいいっぱい』〈朝日新聞社〉なども読んではいたけれども、テレビの印象は強い)。 

せいいっぱい―土井たか子半自伝

せいいっぱい―土井たか子半自伝

 その後も何度か、土井とは対面している。主にイベントで土井が話し筆者は下働きという構図?で、秘書の五島昌子とともに小規模の集会にもまめに現れた。マイクを握ると元気に振る舞ったが、基本は寡黙だった。

 イベントの惹句に“昭和”という語が入るのはいかがなものかという土井と五島の苦言を、他の社員から聞いたこともある( “昭和”は主旨に不適切という意味なのか、あるいは左派として元号を使うべきではないと主張したのかは定かでない)。ただその社員によると土井は極めて優柔不断な面があり、五島がフォローしてふたりはいつもいっしょなのだという。もしかすると五島単独のクレームだったのかもしれない。

護憲派の一分(いちぶん) (角川oneテーマ21)

護憲派の一分(いちぶん) (角川oneテーマ21)

 イベント以外に“アジア人権基金”での会合に行ったこともある。

 当時は第一次安倍内閣の時代で、安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」をしきりに連呼。レジームとはいかなる意味かと国会で問われた安倍は体制というようなものだと返答したそうで、土井は、

「だったら体制と言えばいいでしょ。レジームだなんて」

とミーティングの席で憤慨していてちょっと面白かった。

 終了後にイタリア料理の店へみなで行くことになり、いちばん下の筆者もついて行くことに。

 レストランではテレビ局の社員だという年配の人が、土井を見つけて挨拶に来た。他の客もこちらを見て「土井さんだ」と反応していた。

 昔の雑誌には「どこに行っても熱烈に歓迎された。たちまち千人を超す人垣に囲まれる」とあったけれども(「現代」1989年9月号)、21世紀ではそんな熱気は当然ないにしろ、やはり土井の知名度とオーラはある程度健在だった。

 レストランでは国際派として知られた某男性議員がゲイで美少年好きだったなどという話題が出ていたが、土井は疲れたのか、無言で虚空をにらむような表情を浮かべた。

 

 土井に挨拶する機会もなく筆者は会社を退職し、いつが最後の邂逅なのかもあいまいである(もちろん土井は、筆者のことなど覚えていなかっただろうが)。

 筆者が辞めた後に土井は体調を崩し、生まれ故郷の神戸に戻ったという。

 歳月は流れ、毀誉褒貶あるとは言え歴史に名を残す人物の老年期に、一瞬わずかに立ち会ったのかと思うと、不思議な感慨にとらわれる。

 

軍備なんかどこの国でも持っているんだ、戦争は避けて通れないといったのは男の人たちでしょう。男の人たちがこういう政治を動かしてきたんですね。女の人たちが立ち上らないと政治は変らないと、これは、はっきり言えると思いますね」(「月刊婦人展望」1983年10月号) 

やるっきゃない!―吉武輝子が聞く土井たか子の人生

やるっきゃない!―吉武輝子が聞く土井たか子の人生