私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

長谷川和彦 トークショー(2019)レポート・『ヒロシマナガサキ』『太陽を盗んだ男』(1)

f:id:namerukarada:20191130221644j:plain

 映画『青春の殺人者』(1976)と『太陽を盗んだ男』(1979)により日本映画史にその名を刻む長谷川和彦監督。その他に『青春の蹉跌』(1974)やテレビ『悪魔のようなあいつ』(1975)などの脚本でも知られる。

 2月に高円寺にてアメリカのドキュメンタリー映画ヒロシマナガサキ』(2007)が上映され、トークゲストとして長谷川監督が登壇した。聞き手は旧知の山崎裕カメラマンが務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分がございます。ご了承ください)。

 

【『ヒロシマナガサキ』について】

長谷川「(スティーヴン・オカザキ監督は)日系アメリカ人なんだな。日本人のドキュメンタリストでは追えない、追い方ができてるね。感心するが、もうひとつ突っ込んだらどうかなと思ったな。(出演者は)あんなに傷跡を見せてくれるわけだし、貴重だと思うんだが。アメリカが何故、広島・長崎に落としたかの追及がもっとあれば。それまで広島にほとんど落としてないのは、実験のためだからな。原爆の実験をしたかったわけだな。この戦争に勝つのはもう見えてるから、どう勝つかじゃなくて。広島は候補地として残されて、ほとんど空襲に遭ってない。まっさらな都市が原爆でどれだけ痛むかということがさ、チェックできるじゃないか。空爆があると、どれが原爆の威力か判らんから。候補地はあと4つか5つあったらしいが。京都にしなかったのは、寺院仏閣があるから反撥にびびったんじゃないかな。

 第二次世界大戦は日独伊の三国同盟との戦争だったわけだが、ドイツやイタリアには使ってないからな。このことは言及してみてほしかったな。時期的に間に合わなかったとかいうことになってるが、それだけじゃないと思うね。その後のアメリカの戦争の仕方を見てても、色が違う国は平気で痛めるだろ。しかしギブミーチョコレートにさせる。この映画を見てて、アメリカ人個人が嘘をついてるとは思わないけど、おれが言ったようなことが国家としてはコアにあっただろうというさ。それが日系アメリカ人なら、もう少し追及できるだろうと。エノラ・ゲイの乗組員まで見たのは初めてだから。前半は反省する気はないと言ってたのに、後半はごめんなさい、寄付金を出すという。それがアメリカらしいと言えばらしい。

 おれも胎内被爆者じゃなかったら、この映画については喋れなかったかもしれないな。地獄を生きてきてる人たちだからね。夫が汽車に飛び込んだとかよく追っかけてるし、本音があまり粉飾されてないから、この監督はなかなかのものだと思うが不満はあったな。(科学者が笑顔なのは)勝ち話だからな。やっぱりイエローモンキーなんだろうな、ベースにある本音は。日本人はそういう差別を持っているかもしれないし。あそこも妙な国だよな。あんなもんが大統領かと思ったら、結構生き延びてるもんな」  

【幼いころの想い出】

長谷川「この映画に出てくるABCC(原爆傷害調査委員会)なんて、おれも6歳のときから連れてかれてたね。(映像で)かまぼこ型の庁舎を見てなつかしいなと思うけど、うちのすぐ近所に山があってね、15分もかからない。そのてっぺんにあった。全く記憶はないんだが、胎内被曝でね。広島の郊外と言えば聞こえはいいが西条という町があって、酒づくりで有名かな。その隣にちっぽけな村があって、そこの小学校の教師をおふくろがやってたんだ。親父は西条の農協の職員で、長屋に住んでたんだけど。妊娠5か月で被爆してるんだけど、8時15分は小学校の朝礼の時間で広島方向に光ったのは見てるんだな。その日の夜、おふくろの弟が広島で陸軍少尉をやってて、命からがら逃げてきたんだ。血を吐いて倒れて、彼は1週間くらいで死んじゃったんだが、その翌日におふくろが広島市内の師団本部に報告に出たわけだな。こいつはここにいますと、でないと逃亡兵になっちゃうから。被爆直後の町を2日間うろうろ歩いたらしい。胎内だからああいう風景はおれは見てないし、後で絵や写真はだいぶ見せてもらったが、胎内被曝で二次放射能だから気にしてなかったんだよ。でも1951年からABCCが体内被曝児の調査も始めて、朝8時にジープが迎えに来るんだよ。きょうの映画では逮捕するみたいに連れてくとか言ってたが、そういう感じじゃなくて“さあ!”という感じなんだよ。アメ公を子分にしたみたいで(笑)。おれはABCCのことは病院だと思ってたから、行くなり素っ裸になって。レントゲン撮ったり、いろんな検査をするんだ。学校も休めるし、おれはひどい目に遭ってるとは思わなかったな。コーラ初めて飲んだのは、そこでじゃないかな。だからモルモットになってるという実感はなかった。エリート的に身体検査してもらってるような。小学校いっぱいくらい検査に行ったけど。

 何でおれが生まれたときの写真がないんだって言ったら、あんた生まれたときは原爆落ちて大変だったんだって言われたんだけど、そのころの兄貴の写真は死ぬほどあるんだな。3番目の子どもはおまけみたいなもんで。親父と相撲をとったりして、その記憶があったんで『青春の殺人者』では豊(水谷豊)と親父に相撲をとらせたんだ。

 小学3年生のときかな、まだテレビもないからいつも夕刊読むんだけど、もう夕刊くらい読めたからな。“きょうの夕刊は?”って言ったら知らないって言うんだよ。怪しいなと思ってさがすと押し入れの隅にあるじゃねえか。見ると胎内被曝児が白血病で死亡という記事が大きく載ってたんだ。これのために隠したんだと判ったんだな。隠しとけと親父が言ったらしいんだけど、それがよくなかったな。おれは死ぬんだと実感として思った。元気だった子が突然発症して死んだという。ただその子は(被曝時に妊娠)3か月で、おれは5か月だったからちょっと安定してたのかもしれん。もう自分は長生きできないと完全に思い込んじゃったね。10代のときは20歳前に死ぬだろう、20代は30は無理だろう、30になったら40はさすがに。40になって、何だ違うじゃねえか。太宰治トカトントンだよ。死ぬ死ぬと思って生き急いでたんだよ」(つづく 

 

【関連記事】長谷川和彦監督 トークショー レポート・『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』 (1)