私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

山田太一 トークショー “生きがい探しシンポジウム”(1992)(3)

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 今も文化村(東京)の映画館でやっていますけれども、『髪結いの亭主』という映画、ごらんになりましたか。

 髪結いの亭主って、正確には、女の床屋さんの亭主の話です。男性を相手にした床屋さんの亭主という意味なんですけど、小さいときに床屋さんに行って頭を洗ってもらったりするときに、女の人に洗ってもらうのがものすごく快楽だったわけです。それで小さいときから、自分は将来、女の床屋さんを女房にしようと思うわけです。フランスの話です。そして、中学生ぐらいのときかなあ、お父さんに、お前、何になりたいと言われて、髪結いの亭主になりたいと言うわけです。それでばーんとぶたれる。あまりに志が低いって。ところが、それを貫くわけです。ついに髪結いの亭主になるわけです。それで奥さんがお客さんの頭を刈ってるのを、一日中楽しそうに見ている。それで、一生貫いちゃう話なんですけど、むちゃくちゃと言えばむちゃくちゃな話なんですが…。それは結局、社会的な価値基準にとても反する生き方なんですね。もっと志を高く持たなきゃいかんという圧迫がフランスでもきっとあるんでしょう。お父さんがぶつくらいですから。でもそれを貫くわけです。それで、その男のせりふで、おれは旅なんか大嫌いだと言うんですね。おれはうちにいるだけで幸せだと。それから、パーティなんて大嫌いだと言うんですね。パーティなんて、あれは時間のつぶしようがない連中が集まって、みんなでつぶし合っているんで、ほんとは楽しいはずがないなんて言う。そうやってその映画は、いわゆる社会的な価値基準として、我々に圧迫としてのしかかってくるものを全部取っ払った人生を描いているんです。それはリアリティはないです。そこまではちょっと無理だろうといういろんなことがあってね。でも、まあ、映画ですから、妄想も許される。妄想としてはリアリティがあるし、よくわかる。

 そういう社会的価値基準から言ったらばかばかしいと思われるような願望を、ひそかにみんな一つぐらいは持っているかもわからないんで、すぐ働かなければとか、人の言うことを聞かなければ食っていけないというところから脱出できた人は、そういう願望をなんか、ほんとにばかばかしくても貫くというのでしょうか、そういう楽しみを自分も持ちたいと思いますけどね。

仕立て屋の恋(字幕版)

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髪結いの亭主 [DVD]

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(中略)

 

 やっぱり僕は若いときと同じように生きるんじゃなくて、死期が近くなってきたんだから、人に迷惑をかけないで、うまい死に方で死ぬことを努力するという部分もなきゃいけないと思いますね。

 生きる方向で活力を得ようとばかりしないで、だんだん少しずつエネルギーをなくしていって、うまく年とって、うまく死んじゃうというのも、人格の勝負になっていくんじゃないかという気がするんですね。

 

(中略)

 

 結局、年齢というものを僕は無視できない。青年期、壮年期にない老年期だからこそのマイナスの部分もプラスの部分も厳然としてあるというふうに思います。そういう部分を無視して、できないことをあまりに願いすぎるというのは、やはり年がいとして恥ずかしいことだと思う。自分のできることをつかむということが年がいではないかなと思います。

 そして、まあ最低限、なんとか幸福感を手に入れようと思う。自分が幸福になれば、それだけで、随分周りはほっとします。不幸だ、不幸だと思っていれば、それだけで周りは随分負担になります。なるべく幸福だと感じる能力を手に入れて…。それだけでも僕は随分ボランティアになっているんじゃないかなと…、特にいいことをしなくても。そういうものではないかなというふうに思っておりますけれども。

以上、「生きがい探しシンポジウム 50歳からの選択」より引用。

夕暮れの時間に (河出文庫)

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