【清順の人物像】
野呂「葬儀で弟の健二(鈴木健二)さんおっしゃってて、頭いい人だったと。でもひとことも言わない。小学校では神童って言われた。東京で十指に入るくらい。そんな人が考えるんだから(『関東無宿』〈1963〉で)赤くなったぐらいでびっくりしちゃいけませんよ(一同笑)」
葛生「1年生から6年生の総代で、頭はピカイチ。徒競走でも走るのも泳ぐのも、東京市で十指に入るスポーツマンだったと。想像できますか?」
野呂「輸送船が2度沈んでも、泳ぎが上手くて助かったそうです。それで日活入れた」
岡田「自分のことは喋らない」
葛生「小学校のときは1分だけ黙れって言われるくらい、おしゃべりで走り回ってた。でも戦争から帰ってきたら無口になって、無口だった健二さんが喋るようになってアナウンサーに。戦争が人生観を変えたんですね」
野呂「戦争のことは喋らなかった。ショックだったんでしょうね」
葛生「『春婦傳』(1965)では曳光弾が飛ぶのが綺麗ですねって言ったら、ああいうことは目に焼きついてると」
かつて“一水会”という飲み会を頻繁に行っていたという(右派の団体とは無関係)。
野呂「飲み会ではどんな話するの?」
葛生「ぼくら、飲めない奴は入(い)れない(笑)。このお酒はおいしいとか、これがおいしいとか」
野呂「ぼく飲めないから、頭のいい人が集まって芸術論を戦わせてるのかと。ただ酒飲みに行ってたの?」
葛生「前の奥さん、亡くなられたけど料理が上手い。なんかあったら集まってうまいもん食わせてもらって」
野呂「監督は、撮影が終わるとワゴンで奥さんと旅に出ると。全部忘れるために。終わって家に行くといらっしゃらない。(旅先では)安全なように交番の近くに車停めて寝る。駅弁買って温泉入るって」
岡田「旅では草履はいて、靴下はかない。ワゴンには畳があって、ふらっと。自由奔放でしたね。何かの折りに物をくれる。大した物じゃないけど、おいしい佃煮とかね、東京の下町ならではの。粋で心遣いの人でしたね」
野呂「怒られたことないんですよ。あの人の前で芝居ができて幸せです。
秀才と共通するのはひとつだけ。うちの家内が豊橋市の出身で、次郎柿がおいしくて。熟し切った柿が大好きなんだけど、家内はそんなのって。でも監督はおれも好きだって。おお秀才と共通点ができた(笑)」
晩年には室生犀星原作『蜜のあわれ』の映画化の企画が進んでいた。
葛生「監督は弱ってきてたけど、『蜜のあわれ』をやってもらいたくてプッシュしてたんで。乗り気だったんだけど」
岡田「脚本家3人に(シナリオを)書いてもらったけど、監督は気に入らなくて、最後は監督が全部書きました。会話劇でシナリオとしては成立してないけど、素晴らしかったです」
葛生「池袋の新文芸坐、あそこでトークショーがあって、相手は映画評論家だったかな。もう車椅子で奥さんも来てて、ぼくは劇場の隅で聴いてたけど、そこで監督がもう撮りませんと。びっくりして、『蜜のあわれ』が進んでて、資金も調達できそうだったから。楽屋で止めるの?って言ったら“あ、ごめんごめん” 。それで『蜜のあわれ』はぽしゃったんです」
岡田「鈴木さんが舞台上でやりませんと語りかけて終わった」
筆者は、新文芸坐でのトークショーを最前列で聴いていた。車椅子だったので映画を撮るのは難しいだろうなと納得したのだが、具体的な企画が進んでいたのだった。
葛生「その後で奥さんにどうしてるって訊いたら、何もしてないっておっしゃってて。日本映画専門チャンネルばっかり見てると。家に行ったら、ボーッとして見てるのか見てないのか。見てたんでしょうけど」
野呂「ぼく73のとき、監督は83でいまのぼくくらいの歳で、洋画を最後まで見て、あっこれ前に見たって判るって言ったら、監督はぼくは途中で筋が判らなくなるって。どんな秀才でもこんなときが来るんだなと」
葛生「よくあるよ(一同笑)」
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【その他の発言】
野呂「役者は出番がないとおさまらない。台本もらったらまず自分のシーン数えて、それから覚える。『百万弗を叩き出せ』(1961)は初めていい役で、記憶にあります」
葛生「ぼくは『関東無宿』が好き。野呂ちゃんもいい芝居で。それまではやりすぎだった」
野呂「あのころは“やりすぎの野呂”って言われました」
葛生「民藝に半年行ってたほうがよかったんじゃない?(一同笑)」
野呂「(抜擢のおかげで)ぼくみたいな端役をやってきた京都組の人からはにらまれて、いじめられましたよ。誰とは言わないけど(笑)」
岡田「他の人に比べて濃いんだよね」
葛生「非映画的な顔だからね(一同笑)」
野呂「いま84歳ですが、最後に清順さんのに出たかった」
最晩年の鈴木監督は酸素ボンベをつけていたので、飛行機に乗れず、野呂氏を訪ねていくことができなかったという。死後、野呂氏は奥さまの許可を得てお骨をもらい、壺をつくって保管した。その壺を、トークの最後に涙ながらに見せてくれた。