【『早春スケッチブック』について】
何を軸にして書こうか。(かつては)生き方を問うとか、本当はどうかを問う時代でした。いまはファンタジーや快いもの、現実はそうはいかないから夢を見たいって作品も多い。でもあのころは、観念的な部分での議論、進歩的文化人、マルキシズムなんかの影響を受けた人たちが論説を書いたりなさっていた時代です。すると地べたを這うような普通の人の話を書いていると…。
社会はこうあるべきという観念をつくっていくと、最初は情念があって、感情をかき立てられて、観念にたどりつく。でも観念が洗練されると、人の細かな現実が棄てられてくる。人っていろいろ違うというのは、ドラマのほうが書きやすい。だからいろんな考えの人が出てくるドラマを書きたいと思いましたね。
新宿のゴールデン街、ああいうところで飲んだくれて喧嘩するような経験を積まないとダメだとか。そんなのおかしい。ぼくなんか、怖いから行かない。血を吐いたとか、何が嬉しいの?(一同笑) 戦中から戦後にかけて、私は兄をふたり失いましたし、母も失いましたし、死ぬ人が多くて。世間は怖いものだと思ってましたし、無頼な人が偉いってのは、その人はいいけど若い人が誤解してしまう。そういう無頼の器量がない人も荒れなきゃいけないと思われる。ある時期の映画などにもありましたけど、無頼な人は普通の感覚を持った人が描けないんじゃないかなと思ったですね。
そこであるカメラマン(山崎努)が死ぬ前に、昔の女の人(岩下志麻)との息子(鶴見辰吾)に会いたいと。ひとりで生きてきて、誰かに影響を与えたい。そこでかつての相手の家庭に入り込んできて、奥さんはいまごろ来て何だと。カメラマンは、人間はそんなに自分や周りの世界ばっかり大事にしてるわけじゃないと。扇動ですね。普通に暮らしてることを引っかき回す。ベースはニーチェですね。山崎努さんでやった『早春スケッチブック』(1983)です。商工中金の銀行員が夫(河原崎長一郎)で、そこに変な男が現れて息子に会いたいと言ってくる。(男と夫と)どっちが正しいというわけではないですけど、その対立が調和を持てるようなラストを書けないかなと。普通ならそんな(ニーチェみたいな)こと言ったって、どうしたらいいんだよって。でもチャーミング。細部の魅力、また山崎さんがうまいから。お互い、いい時期に出会って、ある時期の年齢の艶というのがあって、書けました。
見てくださった方は、山崎さんがドラマの主張だと感じてしまうんですね。(男と夫と)両方同じように書いてるつもりなんですけど。山崎さんがどうして現世をバカにしてるかというと、死んじゃうからですね。ずるいと言えばずるい。それに対抗するには日常の生き方、釣り銭を両替えしてお正月に備えるっていうような、部下を回って。河原崎長一郎さんがやってくださって、それが拮抗しうるか。長一郎さんもうまかった。俳優さんのおかげでうまくいったなと思います。
(『早春』の)岩下志麻さんは松竹にいたころ、メロドラマのヒロインで何本か助監督でついたことがありましたけど、篠田正浩さんと結婚なさる。それは綺麗でしたね〜(一同笑) 変な話ですけど、いや変じゃないな(笑)。大島渚さんが小山明子さんと結婚するとき、小山さんも輝くようでした。吉田喜重さんと岡田茉莉子さんの(結婚式の)とき、ドイツの田舎に行ったら蝋燭を並べてあって。女の人って結婚するとき、こんなに綺麗に。お化粧のせいかな(一同笑)。その3人の結婚する前の感じ、自分の女房もそうだったかな。こっちは相手の人生引き受けるわけだから…。いや向こうが引き受けてくれたのかな(笑)。
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【店の想い出】
時代は動いてまして、ダイエーができたとき、価格破壊が評判になって。また大山勝美さんとスーパーを書こうって(『知らない同志』〈1972〉)。随分スーパーを取材して、そのころは新鮮で。自由が丘の隣の駅にある2階を間借りして、本を書いて、夕飯はうちに帰る。大変になってくると帰れなくなって、気がついたら1時とか。そのまま寝ちゃえばいいですけど、お腹がすいて外に出たんですね。住宅地はシーンとして、自由が丘も店は閉まっていて帰りかけたら、灯りがついてる場所があって、酒場かな。でもこんなに灯りをつけるかなって近づいたらコンビニで。深夜に歩いてる人には救いだな。それも大山さんとでコンビニを書きましょうと(『深夜にようこそ』〈1986〉)。高島平、荻窪のコンビニを取材して。コンビニって家族(経営)で、家族がいっしょにいられない。誰かが引き受けて、夜中ものんびりしていられない。兄弟でやってると、兄貴とはすれ違いで、コンビニも大変なんですね。いまほどアルバイトに頼ってない時代だったかな。
時代ってほんとに動いていくって思いますね。あのころと似ても似つかない時代になってると。極端なのは戦争中といまですけど。日本人はくるっと変わる。アメリカ憎しと言ってたのに、戦後になるとアメリカのものはなんでもいいと。アメリカが決めたことなら仕方ないとか。日本人が栄養失調でふらふらしてたときに、アメリカ人はつやつやしてて、日本人は人種的にダメなのかと劣等感に打ちのめされたりしましたね。
天皇陛下が亡くなられたとき、横浜のホテルで書いていたら、そのときも腹が減ってね(笑)。なんか食べに行こうと外へ出たら、中華街の店が全部閉まってて、びっくりしましたね。こんなに徹底して…。そのときだけでしたが、日本って怖い、例外がない。食べるところがない。もしかしたら中華街の人は(中国人だから)慮って自粛しましょうってなったのかもしれないですけど。あのときのシーンとした中華街を悪夢みたいに感じましたね。そんなに長くなかったですけど、戦争中は天皇陛下をご真影と言って、そこにお辞儀して校舎に入る。天皇陛下のために死ぬって言ってて、それがアメリカが来たら変わりましたけど。自粛のときに思い出して、人間って…。油断しないようにしましょう(笑)。