夕焼け空を盗もうと暗躍する怪人、宇宙人の少年の旅立ち、10年に1度だけ“冬の国”からやって来る女の子。
1990年代の終わりから2000年代にかけて、世紀の変わり目の喧騒の中で送り出されたファンタジードラマ。故・原田昌樹監督がテレビ『ウルトラマンティガ』(1996〜97)や『ウルトラマンダイナ』(1997〜98)、『ブースカ!ブースカ!!』(1999〜2000)などにて手がけた作品群である。
この度、原田監督の軌跡をまとめた『少年宇宙人 平成ウルトラマン監督・原田昌樹と映像の職人たち』(二見書房)が刊行された。著者の切通理作氏によると、出版社を変えながら長い年月をかけてようやく完成にこぎつけたという。このほど出版を記念して、原田監督のゆかりのスタッフ・キャストが集結してトークショーが行われた。司会は、切通氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。
原田昌樹監督は、『極道拳』(1994)、『喧嘩ラーメン』(1996)といったVシネマを主に手がける作り手であったが、映画『ウルトラマンゼアス2』(1997)の助監督を務めた関係で『ウルトラマンティガ』に登板することになったという(『ゼアス2』の脚本家の斎藤和典氏が『ティガ』に参加するので、その関係で原田監督も呼ばれたらしい)。
【『ウルトラマンティガ』(1)】
『ウルトラマンティガ』からは、防衛チームのイルマ隊長役の高樹澪、ムナカタ副隊長役の大滝明利、シンジョウ隊員役の影丸茂樹、撮影の倉持武弘、脚本の右田昌万、プロデューサーの渋谷浩康の各氏が登場。
高樹「イルマ隊長は、私の人生の中でも大切な存在です。あれからもう20年、すべての人が光を継いだんですね。笑ってんじゃないよ」
大滝「さっきぼくが言ったことじゃない?(笑)」
高樹「受け売り(笑)。原田さんが託したものを、私たちが次の世代へ持っていく。きょうを機に、また前進しましょう」
大滝「すべて隊長が言った通り。ありがとうございました(一同笑)」
渋谷氏が撮影したメイキング映像も上映された。
渋谷「『ゼアス2』ではアシスタントプロデューサーをやっていまして、原田さんが助監督でした。『ティガ』当時、時間がエアポケットのように空いてまして(監修の)高野宏一さんに現場の記録を撮っておけと言われて。急に行ったカメラマンでしたけど、空気のように現場に入ることができましたね。原田さんが、こういう画が撮れるとか、いろいろ言って下さって」
倉持「『ティガ』では、テレコムセンターを基地の一部としてたくさん使わせていただきました。かなり通った覚えがあります。記憶が定かではないんですが、気配を感じると渋谷さんが撮ってて、下手なことは言えない(笑)」
高樹「原田監督は、レナ(吉本多香美)に演技指導を普通にしてたけど、私にはなくて。監督と話した記憶がないんです。いつもサングラスで、私のほうを見てくれない。稲城で飲みに行ったときに話したくらいで。あんなに太い声で男っぽく演技指導されるのは(メイキング映像で)初めて見ました」
倉持「メイキングに入ってる「よーい、はいっ」っていう監督の声、乗ってるときの声ですね。私はファインダーのぞいてて声しか聞こえないけど、乗ってないときは全然違う。原田監督はストレートでした。
俳優さんにも自由にやらせて、アドリブはだめっていいながら、いいときはいただき」
大滝「うちらはアドリブ禁止令が出ていたんで。台本通りにやらないって(笑)」
倉持「ツーショットでカメラ回すと、後ろに余計な人がすーっと入ってくる。でも原田監督は喜んでましたよ。俳優は、画面にどんどん入っていくっていう積極性がないと。もちろん入っていいよとは言わないけど(笑)」
原田監督の初参加は『ティガ』の第29話「青い夜の記憶」。絶大な人気を誇るアーティスト(田中規子)が宇宙人だったという渋いエピソードで、初演出の時点で異彩を放っている。
大滝「最初はVシネマのやくざものでした。Vシネマって独特の現場なんです、強面の役者さんを統制しなくちゃいけないから。『ティガ』で原田監督が来るって聞いて、やくざものの監督が何で?(笑)
「青い夜の記憶」で、台本に腑に落ちないことがあって、なぜかムナカタがボイスレコーダーを持ってくる。何でって撮影当日に訊いたら、監督も「そうだよな」って悩まれて、動揺されてましたね」
影丸「「青い夜」は初めて原田さんが撮られた回で、ぼくらはチームができていたんで、ひょっとしたらやりにくいところもあったのかもしれない。
原田さんは現場の流れでどうとでもできる人で、ロケハンとかの想定も広い。アドリブも活かす方向でした。周りにいつも人が集まっていましたね」(つづく)