詩人・谷川俊太郎には、シナリオ作家としての顔がある。詩作をはじめ絵本、エッセイといった文筆の仕事は有名でも、映画や舞台にシナリオを提供してきたのはあまり知られていないかもしれない。そういった仕事の片鱗に触れることができるのが『いつだって今だもん 谷川俊太郎ドラマ集』(大和書房)である。
谷川は故・市川崑監督の映画『愛ふたたび』(1971)、『股旅』(1973)、『火の鳥』(1978)の脚本を執筆しており、それら市川監督との諸作はいまもソフトやCSである程度見ることができるものの戯曲などはこの本が刊行されるまで読むのが難しかったはずである(雑誌掲載などはあったのだろうか)。
『いつだって今だもん 谷川俊太郎ドラマ集』には戯曲、テレビドラマ、ラジオドラマの脚本といった異なるメディアのために書かれた4篇が収められていて、発表の時期は1959年から1985年まで最大で26年もの開きがあるのだが、読んでいくうちになんとなく通じる主題が感じられる。執筆時には1冊にまとめることはおそらく考慮されなかったはずなのに、時間(そして男女)という題材が頻繁に姿を見せているのだった。意識的にか無意識的にかは定かでないが、谷川俊太郎はとりわけ時間というテーマに、詩よりも長尺であるシナリオや劇作において、さまざまな角度からアプローチを試みているように思われる。
1982年に書かれて未発表だったラジオドラマ「巨大なウエディング・ケーキ」は男女のふたり芝居で、女性は同一人物だが男性は父親、恋人、息子の三役を演じる。三部構成で女性が18歳で母親が家を出た時点にて始まり、やがて仕事をばりばりこなす年齢になって、最後は高齢の母親と向き合う熟年に至る。家を出て行った母親の存在が、主人公の女性の人生にそして彼女をとりまく男たちとの関係に影を落とす。
「母親がうちを出てってからというもの、どんな人にも頼らずに自分だけで生きていけるようになりたいって思いつづけてきた。人に頼るのがこわかったのね、その人がいなくなったとき、自分が立ち直れないんじゃないかと思って。自分が人に頼らないから、人にも頼らせなかったわ、それできっとずいぶん人を傷つけてきたんでしょうね(…)女ってなんなのかなあ」
時間は刻一刻と過ぎ去り流れていく。その流れの中で、ひとりの人物がやや変質しつつも同じ人間であるさまを「巨大なウエディング・ケーキ」はほろ苦く浮かび上がらせる。
「巨大なウエディング・ケーキ」で主人公の前に男たちが現れては去っていったように、時の流れはそれぞれの人にとって個別のもので共有することはできない。テレビドラマ脚本『じゃあね』(1974)では老人と若い人とで時間の在庫は全く異なり、それぞれの人生も交わらないという事実が言及される。
由加子「あの二人(老人)があんなに幸せそうだったのは、二人にはもう未来が必要じゃなかったからなのよ」
茂木のクローズアップ。表情を固くして、まっすぐ前を見詰めている。
茂木「だけど僕等には未来がある。」
由加子「ええ、まだ何十年も」
茂木「(低く)畜生!」
最も後年に書かれた表題作『いつだって今だもん』(1985)は先述のラジオやテレビ脚本がビターな視線をこめて描かれていたのと対照的に、希望を感じさせる印象になっている(子ども向けの戯曲であるゆえかもしれない)。
副題に「きのうとあしたのラブストーリー」とあるように、ふたつの時代が平行して描かれる。ひとつは「おとぎばなしの中のような古代的な時間と空間」で王さまと王子と道化が登場。もうひとつは核戦争で文明が滅んだ時代で女の子と母親だけが生き残った淋しい世界。
後半でふたつの時代を隔てていた壁が消えて「きのうとあした」が溶け合い始める。そして離れていた王子と女の子が出会い、恋に落ちる。
時間の壁を管理している子どもが唄う。
「霧だって雨だって水だもん、湯気だって氷だって水だもん、千年まえの水は千年あとの水だもん」
「今日はきのうの子どもだもん、あしたは今日のこどもだもん」
霧も雨も湯気も氷も一見別個に思えるが、すべて同じ水である。
きのうは今日に、今日はあしたにつながっている。その意味ではどんなときも「今」なのである。おとなであろうとこどもであろうと結局は変わらぬひとりの人間である。
『いつだって今だもん』では「巨大なウェディング・ケーキ」にて哀しみとともに描かれた “時間の流れ” が、裏返されて幸せな情況として提示されるのであった。
谷川のシナリオ群は彼の詩作にも通底するような自在な感性でもって、時間と人生の不可思議を問いかけてくるような感がある。
「霧だって雨だって水だもん、湯気だって氷だって水だもん…