私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

井上ひさしと財津一郎・『薮原検校』『小林一茶』(2)

小説で食えるのに、何も芝居にまで手を出すことはないじゃないか、と陰口をたたかれる世界である。

 五月舎の本田延三郎プロデューサーは、

「竹里には文学座の塩島昭彦、一茶は矢崎滋、園は渡辺美佐子でいきます。もう稽古に入っているし、財津なしでも十分やれます」」(「週刊サンケイ」1979年11月8日号)

 

 2005年に筆者が観劇して感銘を受けた『小林一茶』の再演は当然異なるキャスティングだったが、主役の一茶も敵役の竹里も同等に出番が用意され「一茶の出ない一茶劇」という構成ではなかった。当初のプランは異なっていたのだろうか。

 公演終了後に口を開いた井上ひさしも、財津一郎を批判する。

 

矢崎さんの一茶の配役については財津一郎さんとの間にトラブル、誤解がありました。財津さんが一茶役をおりたと伝えられていますが、僕は『小林一茶』に取りかかるときから矢崎さんと決めていた。財津さんには下の方でガッチリとドラマの基底部分を支えてくれる竹里役を想定していました。でも、いつのまにか財津さん自身が一茶をやるもの思い込んで原文ママしまった。作品を読んでくれれば、一茶役は矢崎さんをあてこんで書いたものとわかってくれるはずなのですが。財津さんはすごい役者だと思う。自分がどう演ればひきたつか、修羅場を知っている。自分が食われてしまう役者とはやりたくない。かつて『薮原検校』で、矢崎さんが財津さんの代役をしたことがある(稽古のときか?)が、それはすごい薮原検校ぶりでした。その噂が流れていったのかもしれない。財津さんは政治的な読みは深いのだが、その力を、戯曲を読む方に回した方がいいのではないですか」(「悲劇喜劇」1980年1月号)

 ただし『薮原検校』の折りに財津は「財津が舞台をさらったとか、新劇の人たちを食ってしまった、などといわれるのは不本意だな。あの芝居は、それこそ皆が一緒になって探りながら作った芝居なんです」と述べている(「悲劇喜劇」1973年12月号)。彼が役者のエゴで『小林一茶』を降りたと断じてしまうのは、早計のように思えなくもない。

 また財津は『薮原検校』の80年代の再演に出演しており、『小林一茶』がマスコミ沙汰になったにもかかわらず井上と絶縁したわけではなかった。

 当時の記事に財津のコメントは見当たらないけれども、後年のインタビューではトラブルに言及する。

 

79年には井上ひさし氏が脚本を書いた舞台『小林一茶』の出演を辞退した。所属事務所は台本の遅れや役柄の変更などを理由に挙げた。井上氏側も「こちらが降ろした」と譲らなかったが、財津は何も語らず、真相はやぶの中だった。

 「いろいろあるが、今、言っても何もならんでしょ」。

 でも、心の扉を少しだけ開けてくれた。

 「辞退でプレッシャーはありました。これで演劇はできなくなるかなとね。そこまで考えて覚悟を決めたんです。本が遅く、初日も開けられない。プロなら早く書いてと思いました。ただ、今は物を生み出す苦しみを知り、命を削って書いているんだと思うようになりました。あの時はあれしか道はなかった。うらみは何も、誰にもないです」」(「日刊スポーツ」2004年6月13日)

 

 奥歯に物の挟まったような物言いには、背後に何らかの秘密があることを想像してしまう。

 結局のところ真実はつまびらかでないが、2015年に刊行された自伝で財津は、トラブルに一切触れず「井上さんには、芝居を通して、悪とは何か、人間とは何か…。深いテーマを教えてもらいました」と感謝の言葉を記している(『聞いてチョウダイ 根アカ人生』〈熊本日日新聞社〉)。

 

【関連記事】大江健三郎へのコメント(谷川俊太郎、立花隆、井上ひさし、いとうせいこう、河合隼雄)・『大江健三郎小説』