脚本家の山田太一先生は詩をシナリオやエッセイ、講演で時おり引用される。山田先生が引き合いに出される詩人のうち、中原中也や立原道造などは知っていてもこちらが無知で教えられた詩人もいる。
山田先生がエッセイや昨年12月の講演などで度々言及しているのが杉山平一「繰返す」。この作品は詩と言うより散文の体裁である。
「僕は迷ってしまって三叉路のガソリン・スタンドで、行先をきいた。そして、思い出した。三年前、ここへ来たとき、やはり迷って、このスタンドで訊ねたことを思い出して、おかしくなった」(『杉山平一詩集』〈現代詩文庫〉)
あ、前も同じことをした。自分がまた同じことをしている。ふっと気づくようなことは多分誰にでもあるだろう。しかし、話はそんな瑣末なことにとどまらない。
「借金は返せるはずだったのに、やはりまた失敗をしてしまって、同じ断りをしに来たのだ。前科者は改悛しても、また繰返すだろう。世間が警戒するのは当然である」(同上)
繰り返すことをよりユーモラスに表現したものに東君平『くんぺい魔法ばなし』シリーズの一挿話「たしかな記憶」がある。
「ぼくは、見知らぬ場所へ行ったとき、
なぜか、以前にも、そこへ来たことがあるような、
そんな気持になることがよくあります」(『くんぺい魔法ばなし 風の子供』〈サンリオ〉)
「ぼく」は初めて知人の山荘へ行くと、栗の木や小川に見覚えがあるように感じる。そして木の枝を使って小川を飛び越えようとして川へ転落。
「山荘に着いてから、知人にこのことを話すと、
ちょうど去年の今頃も、ぼくは、ずぶぬれになって、訪ねてきたそうです」(同上)
つまり全部忘れていたという落ちである。忘れて同じことを繰り返す。本を読んでも、得た知識は忘れてしまう。風景も会話も結局忘れるが、そのときどきの愉しみや時間つぶしのようなものを求めて、忘れつづけながらも本を読んだり旅行へ行ったりするのだろう。
かつて大ヒット映画『千と千尋の神隠し』(2001)が公開された際、宮崎駿監督はインタビューで、主人公は成長しなくていいと説明した。
「最近の映画から成長神話というようなものを感じるんですけど、そのほとんどは成長すればなんでもいいと思っている印象を受けるんです。だけど現実の自分を見て、お前は成長したかと言われると、自分をコントロールすることが前より少しできるようになったくらいで、僕なんかこの六十年、ただグルグル回っていただけのような気がするんです」(宮崎駿『折り返し点』〈岩波書店〉)
観客に成長した姿を見せたい、などと言い出す役者もいるらしいが(佐野史郎『怪奇俳優の演技手帖』〈岩波アクティブ新書〉)成長万歳という風潮に異を唱えるのはユニークである。所詮人生など、同じことの繰りかえし。
『千と千尋』の終盤に、「一度あったことは忘れないもんさ、思い出せないだけで」という禅問答のような台詞がある。
「自分のやってきたことを全部覚えている人っていると思いますか? いないでしょ。でも(…)人間の記憶って、思い出せないだけでどこかに残っているものだと思うんです」(同上)
判りやすい形で「成長」していなくても、思念はどこかに残り、変容しているということであろうか。年を重ねる以上は、螺旋階段がグルグル回りながら上へあがっていくようにどこか向上していると思いたいが…。
「冬は、またかならず巡ってくるのだ。かつてあったことは、またかならずあるのだ。ハレー彗星のように、かならず、確実に、きっと、戻ってくるのだ。きれいな楕円を描いて、我々はすべて、廻り巡り還るのだ。永遠に」(『杉山平一詩集』〈現代詩文庫〉)