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私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

生誕100年 木下忠司の映画音楽(木下忠司 × 山田太一 × 松本隆司)トークショー レポート

山田太一 映画

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 500本近い映画音楽を手がけた作曲家・木下忠司。兄の木下恵介監督『女の園』(1954)、『野菊のごとき君なりき』(1955)などのほか、『人間の條件』(1959〜1961)、テレビ『水戸黄門』(1969〜2011)の主題歌「あゝ人生に涙あり」などで知られる。

 筆者には日本初の長編アニメ映画『白蛇伝』(1958)や『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(1966)、山田洋次監督『なつかしい風来坊』(1966)などの印象も強い。

 木下忠司氏は今年100歳。京橋にて特集上映が行われており、100歳の誕生日に、『破れ太鼓』(1949)の上映と脚本家・山田太一先生と録音技師の松本隆司氏のトークショーが行われた。木下氏も会場に来られ、挨拶されている(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます、ご了承ください)。

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忠司「自分は映画音楽しかやれない人間で。100歳まで生きましたけど、いろんな生活をしてきました。軍隊へ行って、乗馬の経営をやって、船舶もやって愉しい思いをしました。軍隊は愉しくて、はずかしいので、その話はしたくない。

 生まれたときから神さんがついていて。駅前の占い師に、あんたみたいな人相のいい人は見たことない、こんなふうな人ばかりだったら私の商売も愉しいって言われました。ほんとに幸せな人生です」

 

 つづいてトーク。若き日の山田先生は、木下恵介監督のもとで助監督をつとめていた。

 

山田「助監督だったとき、忠司さんに太鼓叩けって言われて」

松本「和太鼓?」

山田「和太鼓だったと思いますけど、ぼくリズム感がなくてダメでね。呼吸が難しくて。太鼓なんて叩いたことないですし。でも忠司さんは怒らなくて、いいよって。ご自分でやってみせてくださいまして。怒鳴られなくて助かりました。何でもやれって言われるのは、助監督ならしょっちゅうですけど。

 木下恵介さんの『永遠の人』(1961)ではフラメンコ音楽が入って、これは忠司さん困ったと思うんですけど、とてもうまくいっていて。合わないとみっともないことになったでしょうけど、実にうまく、恵介さんのアイディアが実現していました」

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山田「さっき控え室で忠司さんと久しぶりにお会いして。以前お会いしたのはおいくつのときでした? 新橋でお祝いしました」

松本「三笠会館だった」

山田「三笠じゃなくて、まあいいけど…(一同笑)。きょう、100歳おめでとうございますって言ったら、“めでたくねえよ”って。いや、おめでたいです(笑)。

 忠司さんのお話になる口調が恵介さんに似ていて、土地の香りというか。東京の人間は神さまって言うけど、忠司さんは神さん?っていう。浜松周辺のニュアンス。それが木下一家というか、いろんな人の香りに似ていて。関西でも関東でもない、温暖な匂い。なつかしいような気持ちがします。

 恵介さんは、『喜びも悲しみも幾年月』(1957)では喜びも悲しみも両方あるという捉え方をなさる。忠司さんの『水戸黄門』の歌でも、人生は楽があれば苦もあると、相対的にいう。どっちもある。ご兄弟のお話しになることに安定感を感じます。浜松あたりは寒くもないし、暑くもない。バランスが良いんじゃないかな。

 この催しをリードなさった脇田さんというプロデューサーの方がいらして、その方から今朝電話がありました。不整脈で入院されて、12日に退院されるけど、きょうは来られない。忠司さんはお元気で、芸術的な意欲もお持ちで中原中也の詩を作曲したいとおっしゃっていたと言っていました」

 

 プロデューサーの方は、中也のどの詩なのか気になるということだったが、忠司氏は耳が遠く、いまの話が聞き取れないと答えた。

 松本氏も、『婚約指輪』(1950)をはじめ多数の木下恵介作品の録音を務めた。

 

松本「私が木下組にめぐり会ったのは、昭和25年の『婚約指輪』です。田中絹代さん、三船敏郎さんが出られて。最初に録音技師の先輩に、恵介さんを紹介すると連れていかれました。辻堂にお伺いして、新しい助手の松本です、と。私が玄関に入ってご挨拶したら、木下監督は頭から足先まで鋭い眼光で見られて。どういう人間か察知したのかな。ま、おあがりと。先輩といっしょにお座敷に上がらせていただいて。お酒飲めないので、お茶とお菓子で。忘れることはできないですね。

 入ったばかりの助手は、どの組もやらなきゃいけない。木下組の2作目は『善魔』(1951)、その後はしばらく経ってから『カルメン純情す』(1952)でした。その後は『日本の悲劇』(1953)などやらせていただきました」

 

 松本氏と忠司氏は、木下作品のほかに小林正樹監督『壁あつき部屋』(1956)、『人間の條件』シリーズ(1959〜1961)などでも協働した。

 

松本小林正樹さんの『壁あつき部屋』で壁を叩く音を入れようと。それで夜中の2時に大船の鉄筋のスタジオに行きまして、夜中に壁を叩きました。当時できたばかりのテープレコーダーで録音しました。その壁の音と忠司さんの音楽とを絡ませて、徹夜でダビングしました。忠司さんは終わるまで丁寧にやってくださって、忘れることができません。『壁あつき部屋』と小林さんの『人間の條件』と合わせて、忠司さんとの親密の度合いが高まったという。忘れられない仕事です。

 忠司さんの怒る姿は見たことないんですよ。温厚で、お兄さんとだいぶ違う(一同笑)。優しい方で、ぼくも叱られた記憶はないですね。

 忠司さんの音楽は台詞の邪魔にならないようになっていて。よく考えた譜面づくりをされていて、私にとってもやりいい音楽でした」

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  ほかに、指揮者の吉沢博氏とのエピソードや、忠司氏の現場で優しかった話などが語られた。

 山田先生が脚本を、忠司氏が音楽を担当した作品もある。

 

山田「テレビで私が歌詞を書いて、忠司さんが作曲してくださって。『3人家族』(1968〜1969)、『二人の世界』(1970〜1971)、『それぞれの秋』(1973)ですね。ぼくが歌詞を書いて、その後もっと歌詞をやればよかったんですが、一向に売れなくて。たまにどこかで使ってくださると、ものすごく安い使用料が来ます。数百円(一同笑)」 

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山田「忠司さんは脚本をしっかり読んでくださっていて。すごいベテランですから、安心してました。ぼくは木下恵介さんの世界で自分をつくっていったところがありますから、突拍子もないというものはない」

松本「忠司さんは他社でもやっていらっしゃいますけど、東映でも。監督の希望を考えなきゃいけないだろうけど、音楽の個性はそう変えられるものではない。話し合ったりして、臨機応変にやっていらっしゃったと思いますよ。

 忠司さんは“泊まっていけば?”って言われるようなあたたかいところもあって、清里の別荘にもお邪魔して、プライベートでも親しくおつき合いいただいて、嬉しく思っております」

山田「そんな別荘行ったりはしてないですが(笑)、長いことお世話になって。

 武満徹さんを思い出すんですけど、ある監督が武満さんを怒って、麦わら帽子をかぶった武満さんがしょんぼりされてて。そういうことは、木下組ではなかったです。

 忠司さんは人間の幅がある方。浜松でお会いしたときも、鰻屋さんでごいっしょしたり。こんなに長くおつき合いするとは」

 

 ラストで、もう一度忠司氏の挨拶が。

 

忠司「ぼくばっかり誉められて、聞きづらい。ぼくはそんな男じゃないし。

 小学校に上がる前から映画が大好きで。友だちに誘われて作曲を習って、それで映画音楽家になりたいと。

 軍隊生活は5年。どこへ行くのも馬でした。日本に帰りたいと思ってましたけど。それで船舶に行って、船に乗ったり。

 らくばっかしてきて、苦労してきた人に悪くてしょうがない。申しわけなくて。

 ぼくには神さんがついていると信じています。大けがもない。しあわせな人生で、100歳まで生きて、かえって後悔してます。仕事はやってない。話したいことがたくさんあります。話したいので、ぜひみなさんうちへ来てください(拍手)」

 

 場内には山田洋次監督、飯島敏宏監督の姿もあった。

 

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