私の中の見えない炎

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特攻服を祭り上げるのは誰だ・『3年B組金八先生』(第2シリーズ)

 ヒット映画や秀逸なドキュメンタリー番組により改めて特攻隊が注目を集めている。特攻隊というと筆者が思い出すのはテレビ『3年B組金八先生』の第2シリーズ(1980)で、特攻への言及が『金八先生』全体を貫く精神にもよくも悪くもつながっているように感じられて印象深い。

 『金八先生』は1979年から2011年まで継続し、特に第1シリーズと第2シリーズは大ヒットした。その第2シリーズの第8話(脚本:小山内美江子 演出:和田旭)にて学校の発表会に3年B組の生徒(大仁田寛)らが特攻服…というか当時の暴走族のような姿で壇上に現れる。みなは喝采するが、校長(赤木春恵)は憤激。その長い台詞は以下の通りである(番号は引用者による)。

 

あの鉢巻きに拍手を送ったのではないのですか。あの特攻服がかっこいいと言ったのではないでしょうか。だとしたら、それはとんでもないことです。

私には兄がおりました。ふたつ歳上で、優しい物静かな兄でした。夜空に星を追い文学を愛するような兄でしたが、昭和18年、太平洋戦争の真っ只中にあった日本はその兄に学徒出陣の名を下しました。訓練を受けて、特攻隊に配属された兄は、星空の観察で鍛えられたいい眼が買われたのだろうと言って笑っていました。でも心の中はいったいどうだったでしょうか。本当に学問の好きな兄だったんです。そして昭和19年、鹿児島の基地から飛び立った兄は沖縄上空で戦死しました。24歳です。私には母がまだ健在でおります。その母は、兄から送られてきた遺書をいまだに大切に持っています。「母上を愛します。妹たちを愛します。そして、それらの人びとが住むこの国を愛し、いま敢然として行きます」。手紙にはそう書いてありました。そのときの死に装束があの特攻隊の服だったんですよ。痛ましいと思えばこそ、何がかっこいいのですか。

いま世の中は、いろんな考えの人がいます。そして思想の自由は、人びとはどんな考えを持ってもかまわないと謳っています。でも、あなたがたはまだ、その考えがちゃんとできあがっていません。そのあなたがたが、特攻服がかっこいいなどと考えるということは、私は見過ごすわけにはいかないのです。

男たちは潔く戦って死ぬ時代だったから、みんな愛する者のために死んでいったのです。そして私の兄も、私や母を守るために死んでいきました。そのおかげであるのが今日の平和なのですよ。

兄は子どもが好きでした。だから教師を目指してました。私が教師の道を選んだのも、志半ばで死んでいった兄の志を継ぐためでもあったのです。そして学問上から言っても、科学的に言っても、神風などというものは絶対にありえないということを教えたいがために教師になったのです。そしてこの前の戦争で死んでいった人びとへ、生き残った者がしなければならない仕事だと考えたからなのです。でもきょうは、亡霊を見るような思いがしました。

私の母は83歳です。いまだに死んでいった息子の学生服を虫干ししています。これはいったいどういうことだか、あなたがた判りますか。私は遺族のひとりとして言います。特攻服がかっこいいなどと勝手に祭り上げないでください。終わります

 

 このシーンは校長先生が平和を訴えた名場面として語り継がれている。筆者はリアルタイムでは産まれておらず、のちに再放送で見たのだけれども、やがて疑問が湧くようになった。詳細に検討してみたい。

 まず①は兄が特攻隊で死亡した、悲痛な経験を述べている。②は言論の自由を意識しつつも、戦争を知らない世代の生徒が特攻服を着るような態度を容認できないと言明する。①②だけ通覧すれば説得性のある主張だと言えなくもない。

 様相が変わってくるのが③であり「男たちは潔く戦って死ぬ時代」で「みんな愛する者のために死んでいった」と断言。それゆえに「今日の平和」が築かれたのだという。戦争による犠牲を賛美し、感謝しているとも捉えることができる。

 ④では自らが「科学的に言っても、神風などというものは絶対にありえないということを教えたいがために教師になった」とふたたび特攻隊を否定する。

 通読すると①④⑤で特攻隊をかっこいいと思ってはいけないと説諭するが、同じ①で「この国を愛し、いま敢然として行きます」という手紙を紹介したり、③で「愛する者のために死んでいった」「今日の平和がある」と強弁したりするのにはやや矛盾が感じられる。祖国や愛する者たちを守るために死んでいくのは「かっこいい」勇猛な行為で、もし「今日の平和」を築いたのだとしたら偉大な功績ではないのか。⑤では「特攻服がかっこいいなどと勝手に祭り上げないでください」と言うけれども、熱烈に祭り上げているのは自分だろうと思わされる。

 このように戦争を否定しながらも愛惜の思いが昂じるあまり肯定的だとしか思えない調子で語ってしまうのは『金八先生』に限ったことではない。しかし本作全体を概観すると、この特攻服のシーンは必然だったようにも感じられる。

 同じ第2シリーズの第11話(脚本:小山内美江子 演出:大岡進)ではクラスの有志たちが受験間際にも関わらず素手でトイレ掃除を行い、歓呼の声を浴びる。このエピソードはコミカルな演出で娯楽作としては実に面白いのだが、専門業者がやるべき難事を中学生にやらせるという内容で、大げさかもしれないが自己犠牲を推奨しているともとれる。

 さらに第1シリーズ以降、毎回終盤で「ぼくたち、みんなでいっしょに卒業したいんです」と連呼され、集団主義が実に色濃い。ただし第1シリーズは生徒が妊娠出産し、第2シリーズは生徒がもといた学校の抗争に巻き込まれており、そのような逆境を乗り越えるためには団結は必須で不自然さは糊塗?されていた。ちなみにその後のスペシャル版や第3シリーズとなると特にピンチもなく、みんなで卒業したいという掛け声は空虚に響き、もはやクラスの結びつきが目的になってしまっているようであった(80年代の個人化の進行によって『金八先生』の集団主義は空洞化していったということか)。

 自己犠牲の奨励と集団主義の強調という『金八先生』の孕む精神は、特攻隊と相容れないものではない。すると特攻に関して、否定と肯定とがないまぜになったような台詞が吐かれるのも理解できる。

 なお『金八先生』第2シリーズに近い時期に制作されたテレビ『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』(1979)では特攻隊員たちに自らの身体を与えていた女(高峰三枝子)や、自らを特攻隊だと偽って彼女と関係を持ちその夜の記憶に熟年になっても呪縛される男(西村晃)が描かれ、特攻隊にドライな視線を投げかけた(脚本:早坂暁 演出:森崎東)。また極右と言われた石原慎太郎が晩年に発表した「特攻隊巡礼」(『海の家族』〈文藝春秋〉)は、擁護するようなトーンながらも『金八先生』と違って意外に覚めた読後感をもたらす。とりわけ第2シリーズの1年前に制作された『まぼろしの特攻隊』の斬新さ・鋭さには驚かされ、筆者の第2シリーズ8話に対する苦々しい感覚は強まっていったのだった。