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山田太一脚本 × 鶴田浩二主演『シャツの店』メイキングを振り返る(2)

 『シャツの店』(1986)の主人公はあくまで時代遅れでコミカルで、たしかに『男たちの旅路』シリーズのように作者の意図を越えてヒーロー化してしまう懸念はなさそうではある。しかしそれでも鶴田浩二の目つきやたたずまいにはかっこよさを感じさせるものがあった。

 

さりげなくシャツにアイロンをかける鶴田の姿。「いらっしゃいませ」と言う職人言葉のニュアンス、シャツの生地を説明する場面や、無風状態でのソフトな場面での表情等、すべてが巧みな演技力で表現されていた。鶴田の演技は、すべて計算し尽された「なりきる」演技である。それは起承転結、メリハリの論理がしっかり含蓄されているからである。

 画面は東京の下町の風景が溶け合ってふくよかな庶民性が語られ、哀歓漂う音楽もぴったりハーモナイズされ、すばらしい作品であった」(杉井輝応『鶴田浩二』〈セイントマークス〉)

ここでは、鶴田浩二のあの独特の軟派的な色気が最大限に利用されている。妻に捨てられて卓袱台にポツンと座って困っている表情のなかに素晴らしい色気が漂い、全体的に柔らかな人情劇という雰囲気が漂っている」(長谷正人『敗者たちの想像力』〈岩波書店〉)

 山田太一脚本では俳優のパブリックイメージとは異なる役柄が振られることも多い。その俳優の素顔には、実はこういう一面があるのでは?という山田の挑戦でもあった。

 

父が最後に演じた「シャツの店」の主人公は、一徹で、身の回りに無頓着なキャラクターで、それまで父が演じてきた人物達のイメージとは違っていたが、画面で見ると様になっていた。

 あのドラマの脚本を父から示された時、私は、脚本を書かれた山田太一さんが、それまでは外部の人は誰一人として気付かなかった父の素顔の一つを見抜いたんだと感じた」(カーロン愛弓『父・鶴田浩二』〈新潮社〉)

 

 また周囲には八千草薫平田満佐藤浩市杉浦直樹、美保純、井川比佐志、松本留美など実力者が配され、脚本の山田は「芸達者を得たことは、この作品の幸運であった」と述懐する(『その時あの時の今』〈河出文庫〉)。

 

特にベテランの仲に入って演ずる若き平田満は仲々の原文ママ俳優である。二十八歳も年長の鶴田浩二の説得力のある話術を真正面に受け止め、さらに反論と進言をし、時には開き直りの姿勢を対等にやってのけていた」(『鶴田浩二』)

鶴田浩二

鶴田浩二

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 撮影は1985年7月から9月にかけて行われて「9月30日に打ち上げパーティがあり、一切のスケジュールが終了した」(『鶴田浩二』)という。この時期の鶴田浩二は既に病魔に取りつかれていた。

 

梅田コマ劇場の昭和60年6月公演は、井伊直弼大老の「花の生涯」であった。大阪の友人の医師が楽屋を訪れ、顔色がよくないというので、検査をしたところ、肝臓の数値が異常に高いことが判明した。

 東京へ帰って、禁酒・禁煙、節制の結果、肝臓は平常値に戻ったが、5月頃からの鶴田の咳込み方に、私は異常なものを感じていた。

 普段の咳は「ゴホン」と短かく淡泊な感じのものだが、この時期の咳込み方は「ゴホーン、ゴホーン、ゴホーン」と長く尾を引くような感じであった。

 それでも7、8、9月とNHKのドラマ人間模様「シャツの店」が収録され、カラオケで歌を唄うシーンがあったが、あの咳込み方でよく歌が唄えたものだと感心していた」(『鶴田浩二』)

父が異様に咳き込むようになったのは、この時期からだった。私も家族も精密検査を勧めたが、父は忠告を聞かなかった。母も父の咳には無閨心で、そうこうするうちに月日が経っていった」(『父・鶴田浩二』)

 

 鶴田浩二は体調が優れないにもかかわらず、1985年6月に舞台に主演してからすぐ翌7月に『シャツの店』の撮影に入ったのだった。全6話の撮影に3か月かけるとは長めのスケジュールだが、鶴田の健康状態を考慮したのかもしれない。鶴田は病気を抱えつつも現場では紳士的に振る舞っていたらしい。鶴田と仲の悪かったという三國連太郎の息子の佐藤浩市が本作では鶴田と共演したけれども、その佐藤が回想する。

 

鶴田さんの息子役と知って「どんな酷い目に遭うんだろう」と思っていたら、凄く優しくしてくれたんです。若山(引用者註:若山富三郎さんとはまた違う優しさで、いつもにこやかで。本当に感謝しました。だから、僕も嫌いな役者さんの息子さんとやる時は優しくしますよ」(春日太一『すべての道は役者に通ず』〈小学館〉)

 打ち上げの日に鶴田は山田にあいさつしたという。

 

最後に打ち上げの時に「これから病院に入る。自分としては精一杯やったつもりだ、どうもありがとう」と言って、握手してくださって、僕は表までお送りしたんだけど、それが最後でした」(「ドラマ」2003年6月号)

 

 そして打ち上げ(1985年9月30日)の翌日に「鶴田は身体の不調を検査するために信濃町の慶応病院へ足を運んだ。10月28日には思い切って入院を決心し、治療に専念した」(『鶴田浩二』)。鶴田は1987年6月に逝去するまで入退院を繰り返した。

 『シャツの店』の撮影終了の直前、平田満佐藤浩市の共演する映画『犬死にせしもの』(1986)の撮影が始まった。『犬死に』は1985年9月下旬にクランク・インしたそうで(「キネマ旬報」1986年1月下旬号、「週刊明星」1986年2月13日号)平田と佐藤は『シャツの店』と平行して、もしくは終了後すぐに共演したことになる。『犬死にせしもの』を見ると『シャツの店』と年格好の変わらない両者が出てくるので、筆者にはふたりが異世界に転生したかのような感覚がある。ちなみにこの後の1986年3月に撮影された映画『蕾の眺め』(1986)でも平田と佐藤は揃って登場し、この時期は両氏の共演作が相次いだ。

 平田満佐藤浩市のみならず『シャツの店』の出演者同士が他の作品で再度顔を合わせていても、何だか『シャツ』の登場人物が年齢を重ねてまた語り合っているように感じられた。

 主演の鶴田浩二をはじめ脚本の山田太一、演出の深町幸男、プロデューサーの近藤晋、音楽の山本直純、共演の八千草薫杉浦直樹などが鬼籍に入ったいま、筆者は『シャツの店』を改めて語り継ぎたいという変な使命感に駆られている。

 

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