戦前戦中に若い画家や彫刻家、詩人などが集ったアトリエ村 “池袋モンパルナス”。その中には画家・寺田政明や詩人の小熊秀雄もいた。2022年12月に政明の子息である俳優・寺田農氏と岩手県立美術館の館長などを務めた美術評論家・原田光氏とのトークショーが行われた(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます)。
寺田「私と原田さんの関係は長くて何十年もお世話になっているんですが、岩手の美術館の館長をされているときに、私たちみんなで遊びに行ったんです。誘いの言葉が松茸を山のように食わせる、うまい酒もあると。2日間、朝から夜まで松茸責め。一生分食べた気がしてあんまり好きじゃなくなっちゃったね(笑)。花巻の萬鉄五郎美術館も行って、露天風呂でも酒飲んで」
原田「東北で巨大震災が起こる前の年でしたね。東北だって普段はたくさん取れるようなものじゃないのに、その年だけ猛烈に取れてみんなでうんざりするぐらい。あれは東日本大震災の前触れだったんじゃないかなと思いますが…始めましょう」
【若き日の寺田政明】
寺田「私の父・寺田政明。絵描き仲間は “セイメイさん” と音読みで言ってました。1912年に生まれていて、明治45年です。この年の7月に明治天皇崩御で大正に改元されます。その77年後に父が亡くなったのは平成元年。正月に改元されて昭和から平成に。父は大正と昭和をまるまる生き抜いたことになります。
北九州の八幡に生まれまして、いまの北九州市立美術館の真下ぐらいに生家があった。目の前は八幡製鉄所。日露戦争に勝った後で、製鉄所が隆盛を極めていた時代でした。私の祖父は製鉄所の運輸課、坑内を走る機関車の機関士でした。まめできちっとしてた。祖母は能天気な人でどさ回りの芝居なんかが来ると追っかけみたいについて行っちゃって、1週間ぐらい帰ってこないとか。そういう家庭の11人兄弟の次男。長男はすぐ死んでいますから実質上は父が長男で、いちばん下の弟とは16も違う。のちに画家になるような環境では全くなかった。富国強兵ですから男の子は軍人か製鉄所の職工になるものでした。7歳のときに蛍狩りに行った。いまは地方でもありませんけど、昔はひとつの娯楽だったんです。その蛍狩りで崖から落ちて、右足を複雑骨折する。1年近く入院する。当時の医学だと大変な障がいを負った。軍人にも職工さんにもなれないから悩む。祖母は祖父にお前の監督がなってないからだと怒られるし、それもつらかった。それが昼間に病院の窓から見たら、ある医師が噴水のそばで昼休みにいつも絵を描いている。ようよう松葉杖がつけるようになってそこへ行って、ああ自分も絵を描いて生きていくことができるかもしれないと。本人はのちにその医師との出会いがなくてもいつか絵を描くようになったかもしれないけど、ただそのことが絵との出会いだったと書いています。中学校は足が悪いから入学不許可で、しようがなくて小倉の九州画学院に入学。16歳で両親の反対を振り切って上京するわけです。当時の東京は関東大震災の後で復興の槌音が毎日聞こえたそうです」
原田「高橋由一という、明治の最初に油絵を画材からつくり上げたような人ですけど「花魁」というとんでもない絵を描いたのは明治5年。寺田政明が九州から東京に出てきたのが昭和の初め。「花魁」から寺田政明の上京まで50年も経ってないです。その間に日本の近代油絵はものすごく成熟した。日本の近代油絵がいちばん盛り上がったのは昭和初期。寺田政明さんたちが東京でひとかたまりになって活動し始めてから太平洋戦争が始まる直前まで、日本の近代美術でいちばん豊かなときだったんじゃないかと思いますね」
寺田「東京美術学校、いまの東京藝術大学が最初にできたときには西洋画はなかった。うちの父親は中学に行ってないから学力的に東京美術学校は無理だったんだね。そこで同舟舎絵画研究所を経て、18歳で谷中の太平洋美術学校に行く。ここに吉井忠、鶴岡政男、松本竣介、麻生三郎などの仲間と出会うわけですね。近くの喫茶店のリリオムで長谷川利行、靉光、高橋新吉などと知り合う。このころの写真があるけど、マンドリンが流行っていて現代のエレキギターだね。靉光さんも面白い人で女装癖があった。生誕100年のときにぼくはNHKの取材に行って妹さんから聞いたんだけど、当時は女装して広島の田舎へ帰ってきたから親戚一同が頼むからもう二度と帰ってくるなと。
うちの父は20歳で独立展で「風景B」というので初めて入選する。上京してから展覧会で入選するまで4年ぐらいかかるんですね」(つづく)