私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

井筒和幸 トークショー レポート・『犬死にせしもの』(3)

【撮影のエピソード (2)】

井筒「山本(山本勉)さんっていうチーフプロデューサーが新橋にある大映の本部にいて、この人が金庫番。年末か年明けたころに新橋から現地にやって来て、そのころ既に5000万ぐらいオーバーしてたんですよ。ホテルで待ってるって言うんで、ぼくはラウンジ行ったら、あしたは雨だって予報だから(休みだろうということで)スタッフは飲みに行ってるけど、休まないで撮影してくれって言うんですね。いや前のカットがいい天気なんでそれは…って言ったら天気なんかどうでもいいと。「映画ってのは雨でも撮るんだ」って、いやそれはないでしょ。前が晴天なのにつながらないっておれたちは言って、いやおれしかいなかったんだけど(一同笑)。あしたは土砂降りの雨だから、助監督たちはあさっての準備をしてる。それでも撮らないと予算がもうないって山本さんは言うわけ。それだけ言いに来たんですかって訊いたらそれだけだって。監督は細かい予算のことなんて全く判らないからね。いまだに判らないよ。サラリーマンが一生かかったってたまらないようなお金だし、大体が人の金だからどうでもいい(一同笑)。次の日は雨降って、当然中止ですよ。漁師さんも出ませんって言うし。天気晴朗でも波高しだとダメだし、漁師さんのひとことで決まる。波が穏やかでないとアウト。山本プロデューサーはしゅんとした顔して帰らはりましたよ。

 京都に大映のスタジオがあって使いましたよ。いまはないけど当時は東洋一と言われたでかいステージで『羅生門』(1950)や『雨月物語』(1953)やへちまを撮ったっていう(一同笑)。その威厳のあるスタジオだけど、ぼくはピンク映画出ですからスタジオは嫌いなのね。セットは、所詮は安普請だからね。セット撮影は年が明けて終盤戦のころなんだけど、京都でセットつくったからロケから帰って来てくれって言われるわけ。そう言ったって、こっちは雨で遅れてるし。セットは遊郭とか家とかで見てくれって。建てた後で今度は壊すって言われた。撮らなくていいんですかって言ったら、あしたあさってはCMの撮影が入ってると。そのために1回壊さなきゃいけない。こっちの撮影をする前に「また改めてつくります」って。そんなことしてたら、そりゃ金出ていくだろう! CMをやめさせればいいだろって。そういうわけにはいかない?(一同笑) ロケに戻って海の撮影の残りをやって、また京都に行ったら立派に同じセットがまたできてましたよ。

 愉しかったけどね。長丁場で4か月ぐらいやってたかな。最後は何撮ってるのか、もう判らない。映画って延々撮ってたくもなるんだけどね。仕上がらなきゃいいなと。別のことしてるような気分になってきて、生きているということなのかな。未公開になろうがジャンクされようがどうだっていい。愉しかった(笑)」

【公開とその後】

井筒「新宿の靖国通りのピカデリー、いまみたいにシネコンになってないころ。あっこでやったんですよ。喜八(岡本喜八)さんの写真『ジャズ大名』(1986)といっしょにね。こっちがB番組、というわけでもなかったのかな。B面ではなかったのかもしれないけど、アイドルも出てるわけだし。とにかく抱き合わせでやった。舞台挨拶も行きましたよ。お客さんはいらっしゃったけど、反応は薄かったな…(一同笑)。ディレカンでは根岸(根岸吉太郎)さんが見に来てくれたのかな。あの人は律儀だから。「来てくれてありがとうね」って言ったら「面白かったよ」と。つまんなくても言ってくれる(笑)。もうひとり来た奴は「つまんなかった」って言いやがって(一同笑)。

 バジェットオーバーで、東京中に伝わりましたね。東映で『二代目はクリスチャン』(1985)をやったプロデューサーにも、東宝の奴にも言われた。日活にも言われて、井筒にしばらく撮らせるなって。そういう業界のお触れが出たって。知ったことかって思ってましたね。ごめんねっていうか、それから干されましたね。同時にメジャーで撮るのも厭になって、好きに撮れないな。それでテレビのドキュメントとかをやり出すんですけどね。そんな時代でした」