私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

榎望(榎祐平)トークショー レポート・『真夏の地球』(1)

 1980年代に長谷川和彦井筒和幸石井聰亙相米慎二黒沢清などの監督陣が集結して設立したディレクターズ・カンパニー。

 2022年10月に東京国際映画祭でディレクターズ・カンパニー作品の特集が行われ、その末期の『真夏の地球』(1991)も上映された。『真夏』はビーチバレーを題材にした青春ドラマで、脚本・榎望(榎祐平)氏のトークもあった。榎氏は『東京上空いらっしゃいませ』(1990)や『風花』(2001)などの脚本や『一度も撃ってません』(2020)などのプロデュースを手がけ、松竹撮影所撮影所企画担当部長などを務めた。川口晴名義で小説も発表している。

 聞き手は映画ジャーナリストの関口裕子氏が務める(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理してしまっている部分もございます。ご了承ください)。

 

【『東京上空いらっしゃいませ』】

 この(『真夏の地球』の)脚本は下手なんですけど(笑)。ぼくは25、26歳のときは映画をやりたくて松竹にいたんですけど、歌舞伎のいちばん下でお弁当を用意したりとか、映画で言えば制作部という部署に近い、いちばん下のところでした。そもそも松竹に入ったのが、親が歌舞伎の関係で縁故採用みたいなところがあったので当然のように歌舞伎の世界に入ったんですけど。当時の松竹は、歌舞伎と映画はふたつの会社みたいに全く分かれていて。資本も分かれていました。それでどうやって映画のほうに行こうかなと。歌舞伎の大プロデューサーだった人に相談しても「そんなの無理だよ」と。行かせてくれなかったですね。子どものころから映画が好きだったので。松竹に入る前に気がついていればよかったんですけど。じたばたしてるときに、ディレクターズ・カンパニーのシナリオ募集があって、それの第1回目(の受賞作)が『台風クラブ』(1985)だったんですけど、1985年ごろは相米さんが『ラブホテル』(1985)、『台風クラブ』と撮ってスターで、ディレカンも輝いていた時代でした。ぼくは松竹にいたころですが。2回目があったので応募して、それが26ぐらいのときかな。城戸賞も出して通りそうになったりしてたんですけど。ディレカンのは出して半年くらい音沙汰がなくダメだったんだろうなと思ったら、当時は携帯もなくて黒電話が鳴って、出たら相米慎二だってことでびっくりして。居酒屋に呼び出されて、もし上手く直せたら映画にしてやると。ディレカンはつぶれそうなんで多少は当たるようなのをやりたいし、そういう素材だと思うと相米さんならではの間違った判断(笑)。準採用みたいになって映画にしてもらえて受賞みたいな形になったのが『東京上空いらっしゃいませ』でディレカンとの出会いです。最末期ですね。

 当時は歌舞伎をやっていたんですが、歌舞伎のプロデューサーが社長でぼくはその秘書でかばん持ち。秘書は女性ばっかりで、ぼくは何だか幽閉されている気持ちでそれで榎祐平というペンネーム(一同笑)。『東京上空』のときに、鶴瓶笑福亭鶴瓶)さんが榎だったら幽閉じゃなくて「軟禁」で「榎軟禁」にしろと言ってましたけど(笑)。榎祐平名義で2本書きました。

 そのころ赤坂の薄暗い、『パラサイト 半地下の家族』(2019)みたいな事務所に行くと本物の相米さんがいるんですよ(一同笑)。おそろしかったですけど、刺激を受けて帰りは元気になるようなこともありました。ただつかまると大変で、長谷川和彦さんもそうですが気をつけないと半日ぐらい棒に振る。人の話、何にも聞かないですからね(一同笑)。

【『真夏の地球』の企画・制作 (1)】

 (『東京上空』が)採用されてディレカンの賞をもらったと言えばもらったので、次もというのが当時の社長だった宮坂(宮坂進)さんの中にあって。ディレカンの監督だと制作費をコントロールするのが大変で言うことも聞かないし、人の企画なんてって言うでしょうから、宮坂さんというプロデューサー主導で進んだ企画だったと思います。長谷川和彦さんとかの知らないところでできちゃって、こないだもこんな企画は知らないとおっしゃったみたいなんですけど(笑)。スタッフはディレカンに出入りしている方たちだったんですけど、監督の村上(村上修)さんはディレカンではないですし、ディレカンの監督ではない作品のひとつですね。

 ディレカンは経営が本当に苦しくて、作品を回さなくちゃいけない。この企画を松竹が受け入れればお金が当面は回るみたいな皮算用もあったと思います。もちろん社長には熱意というかやりたいというピュアな気持ちもあって、そういうのがなかったらああいう会社をやっているわけもないんで(笑)。ただものすごく苦しんでいるのがそばにいて判りました。ぼくに脚本を依頼したのも、松竹が断れなくなるだろうというのがあったと思います(笑)。(つづく