私の中の見えない炎

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和泉聖治 × 鈴木義昭 トークショー レポート・『亀裂』(1)

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 猥褻か芸術かで問題になっている小説。その作品の覆面作家は、実は京都の出版社に勤める記者(水城リカ)だった。覆面作家を擁護する大物小説家(木俣堯喬)はやがて記者と思い合うようになる。

 『亀裂』(1968)は、かつてプロダクション鷹を主宰して多数のピンク映画を撮った木俣堯喬監督の作品で、監督自ら準主役を演じている。9月に阿佐ヶ谷で『亀裂』のリバイバル上映と、子息の和泉聖治監督のトークショーがあった。和泉監督はテレビ『相棒』シリーズ(2000〜)のメインディレクターを務めて大ヒットさせたほか、傑作映画『沙耶のいる透視図』(1984)や渡瀬恒彦の遺作になったテレビ『そして誰もいなくなった』(2017)など多彩な作風で知られる。

 聞き手は『ピンク映画水滸伝 その誕生と興亡』(人間社文庫)の鈴木義昭氏が務める

(以下のレポはメモと怪しい記憶頼りですので、実際と異なる言い回しや整理して閉まっている部分もございます。ご了承ください)。

【『亀裂』について】 

和泉「お客さん2~3人かなと思っていたら、たくさん来ていただいてありがとうございます。

 (『亀裂』は)ジャンクされたかと。フィルムは預ける所の保管料もバカにならないので、古い作品からつぶしてしまうんで、そうなってるだろうと思ってましたが、鈴木さんからぜひ『亀裂』を見てくれと。実を言うと親父の作品を見るのは初めてなんですね。親父が出演してるんでびっくりしました(一同笑)。変な気持ちになって。もう50年も前の作品ですからパートカラーの色も褪せてて、不思議な感じですね。あと10分くらいかなと思ったところでDVDがフリーズしてしまって、結末を見てないんですけど」

 

 木俣監督は、俳優や彫刻家などを経て『肉体の河』(1966)にて51歳で監督デビュー。

 

鈴木「『肉体の河』という神戸を舞台にした映画があります。団徳麿さんという戦前からの京都の俳優さんで、怪優と呼ばれて戦後も京都の大部屋にいて、その人が主演。神戸の当時の風景も映ってて素晴らしい作品です。10年前に神戸で上映して、毎日新聞の人が見て書いたり。

 その作品の後で、プロダクション鷹は東京に出てきています。ただ(『亀裂』は)何で京都が舞台なのか」

和泉「ぼくはそのころ日本にいない時期で。親父は、彫刻はもうやめてましたね。

 親父は、最初はピンクじゃなくて『荒野の鷹』(1965)というテレビ映画を制作してたんです。大阪の会社がお金を出すということで、3~4話つくってたのかな。そしたらその会社の都合が悪くなって、結局オンエアされることなく終わったんですが、プロダクションはその名前が。わが家は衣装があったり、時代劇なんで結髪もやったりしてスタッフや俳優さんがいつもいました」

鈴木「『亀裂』は1968年公開だけど、京都時代にもう撮ってた可能性もありますね」

和泉「京都の最後のころかな」

鈴木「女中の岡島艶子さん、無声映画のスターで倉本聰の『前略おふくろ様』(1975)にも出てますね」

和泉「出演者もピンク映画の常連とはちょっと違う感じがします。

 親父にはよう殴られました。短気で大嫌い。いっしょに食事した記憶もあまりないです。帰ってこないことも。親父といっしょに飯食った記憶も全くないし。小さいころは酒買ってこいとか、覚えてるんですけど。

 親父が出演していて、すごくびっくりしました。初めて見ましたから。これ、ピンク映画?という感じでわいせつでも何でもないし。当時、よく映倫と争ってましたけど。不思議な映画ですね。宇能鴻一郎というか、谷崎潤一郎ふうな感じ」

鈴木「こういう題材でピンクを撮っているのかと(笑)」

和泉「どこを映倫が言ってくるのかな。時代もあるんだろうけど」

鈴木「いまのピンクに近づいてる時代ですが、テーマが文芸作品ですね。無理やりベッドシーンを長くしてるというか」

和泉「ぼくも映倫とちょっと喧嘩したことがあるんですけど、いま考えるとよくあんなことで言い争いをしたなと思いますね。キャメラの前に物を置いて全裸が見えないようにするとか、正上位でもずれるとか、うるさいんですよ」

 

 木俣監督は若松孝二とも関わりがあった。

 

鈴木「芦川絵里さんが、若松孝二さんの若松プロ作品に結構出てます」

和泉「うちの親父が大事にしてた娘ですね」

鈴木若松プロとプロ鷹が提携してた時代がありましたね。若松さんがなんかのパーティーの二次会で、和泉さんが『相棒』をやってたころですけど、おれに向かってなのか若松さんが「和泉は頑張ってる。誰か、誉めてあげなきゃいけない」とぼそっと。あの人、誰に向かってなのか、ひとりごとみたいなことをよく言ってました」

和泉「若松さんはうちの親父とよく喧嘩してました。そんなに好きではなかったです。その話聞いて(気持ちが)ちょっと変わりました。いい人じゃないですか(一同笑)。

 京都撮影所ではテレビとか映画を結構撮ってるんですけれども、行くと年配の人に「あんたのお父さん知ってんで」とか話しかけられて。なんかやりづらいなあと(笑)」

鈴木「木俣監督は、ぼくらより若い人には未知の監督ですね。あの若松孝二と喧々諤々やったという記録もある。調べれば調べるほど面白い。『広域重要指定一〇八号拳銃魔 嬲りもの』(1969)は状態が悪くて今回持ってこられなかったんですが。昔の映画らしく新聞の輪転機から始まるんです。もっと発見したい監督です」

【若き日々 (1)】

和泉「ぼくが中学生のころ、家に帰ると映画人が集まって親父とお酒飲んでました。朝になると血痕があちこちにあって(一同笑)。映画人は何となく厭だなあと思ってました。まさか監督になるとは思っていなくて。中学のころは親父と話したこともない。親父ってそんなもんかなと。

 ぼくは絵を描きたくて、フランスの写真とかを切り抜いて帳面つくってたんですが、そのころにゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)を見たらパリの街が動いてる。すごいなあと思って、映画を意識した最初だったかな。20歳を過ぎるまで放浪して好き勝手やってました。似顔絵を描いて、1枚いくらだったかな」(つづく