【ビジュアル面と装幀(2)】
山根「経済的な問題ではなくてですか。書籍や雑誌でスチールを使うと1.3万円とられる」
鈴木「経済的な問題もあります。いま映画会社がスチールをデジタルで保存しようとしてて20点くらいに絞ってるんですが、そのセンスが悪くてろくなスチールが見つからない。『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970)のいい場面もない。高倉健さんが亡くなったときにグラフ雑誌つくりましたけど『幸福の黄色いハンカチ』(1977)のデータもスチールでなくて印刷物からです。センスがない人が選んでるのと、スチールをどんどん捨ててしまっている。1.3万円の縛りで選んでもろくなことはないし、ところどころ入れてもいいけど、ところどころは逆に難しい。だったら根こそぎやめちゃおう」
山根「結果としては何もない黒い箱と赤い布張りでほんとにシンプル。余計ものが何にもなくてすごく広い感じがしました。でき上がったときびっくりして」
鈴木「書影っていう概念をなくしてしまった。本の姿を写真に撮ってもどうにもならない」
山根「鈴木さんがデザインワークは余計なものを削ぎ落としていく方向に行かれたと聞いて、中身とも歩調が合ってるなと。中身も雑石を削ぎ落とす感じで、執筆者の方にもものすごく注文つけて、ほとんど喧嘩みたいになることもしょっちゅうあったんですね。当然ですよ、自分の書いた原稿にいちゃもんつけて直してくださいと言われたら。執筆者に向かって何を言ったかというと、枝葉を落とすということだった感じがしますね」
【その他の発言】
山根「まえがきにも書いてるんですが、映画は静止体じゃなく動体で、動くものですね。それを文字として定着しないといけないので苦労したんですけど。動く生きものである映画を活字にする作業に22年かかった。その感じをデザインがまさに表象している感じがします」
鈴木「印刷物として定着させたけど、止まってない感じがするんですよ。動くように感じさせながら定着するという作業でした。
本としての構造は漢和辞典によく似てると思うんですよ。のぎへんという項目にのぎへんを使った漢字が画数順に並んでいる。のぎへんが小津安二郎で、その項目に作品が公開順に並んでいると」
瀧本「2000年代初めにその話は出てて、索引を漢和辞典のように冒頭につけたらどうかと。漢和辞典は珍しく冒頭索引なんですね。巻末ではない。採用しなかったですけど、そうしてもよかった」
山根「巻末に、ぼくに何ページかの日本映画史を書けっていうのもありましたね」
瀧本「巻末付録はいろんなアイディアがありまして、山根さんの日本映画史とか制作会社の戦前からの興亡史とか。下書きまでは福島さんも苦労してつくったんですが、確定させようとするとまた大変で」
山根「それやってたらあと2、3年はかかって(一同笑)私はもう生きてないだろうと」
鈴木「漢和辞典でのぎへんが何でこの位置にあるのかというと、合理的な説明はなくて康煕字典がそうなっているから。康煕字典は権威で、この事典では監督名の五十音順だけど五十音もある種の権威じゃないか。生年順に並べるという案もありましたね」
瀧本「ただ監督の生年月日順だと見当がつくようなプロの研究者じゃないと引けなくなっちゃう(一同笑)」
山根「何でそんな話になったのか」
瀧本「五十音でないといけないのかというと恣意的なので、当初の議論は恣意性を疑いたかったんでしょうね」
山根「凡例がついてるんですが2、3日前に読み直したんですね。この事典のルールを示したものですけど執筆者にも見せたんですが、凡例に当てはまらないケースがどんどん出てくるんです。ルールをはみ出すことがあるから、逆に凡例を変えなきゃいけなくなる。結局凡例をガンガン変えて、最終的な凡例がまとまったのが今年の3月で刊行直前。凡例ができ上がる過程が22年で、映画ってそういうものなんだなと」
鈴木「いま感じてるのは徹底的に孤独な本をつくったなと。回し読みできないし(一同笑)。広辞苑も持ち運びは大変だけど汎用性がありますね。この作品事典は『花芯の刺青 熟れた壷』(1976)を誰が引くかっていうと、なかなか引かない(一同笑)。この事典の読者を想定すると、夜中にテーブルの上にこの本をべたっと置いて目の前でDVDを見ながら、このあらすじのまとめ方はいいとか。ものすごく孤独だな(一同笑)。
普通の国語辞典の記述と映画事典の記述とは質が違う。映画事典は誰かが見て書いたという身体性が生々しく残っている。印刷物として定着しているけど動きを止めてない感じ。この記述に向き合うには孤独性が必要じゃないか。ぼくの経験で言うと、これ以上孤独な本はできないんじゃないか」
瀧本「そうですか…(一同笑)」
山根「国語辞典は言葉の説明が書いてある。こっちは映画という生きものの説明があって、生きものを取り押さえている」
鈴木「見て書いた人に対して向き合ってからでないと、読んだことにならない」
瀧本「校閲の過程で文章をいじらせていただいて執筆者との軋轢が生じたこともあって、そうやって主観性を削ってきたはずなんだけども、鈴木さんがおっしゃったように誰かが映画を見て書いた身体性は間違いなく残っていますね」
【最後に】
鈴木「紙の事典でつくってよかったと思うこともあるんですよ。多作の監督でもだいたい2見開きで一望できる。電子書籍ではできないことだなと。マキノ雅弘は8見開きだけど」
山根「つくっているときは使命感があるわけじゃないけど、こんなものをよく紙で出しましたねと言っていただくことが何度もありました。紙で出たことがすごいと」
鈴木「孤独であるんだけども紙であることで開いている。開いているゆえに孤独が際立つ。個々に読むしかないというか。読書感想文とかありえないでしょ(一同笑)」
瀧本「そもそもこれを通読される方が…(一同笑)。おそろしい映画好きの方もたくさんいらっしゃいますので、しかし通読は。哀川翔から始まって毎晩少しずつ読んでいくとしたら、鬼気迫る感じがしますね。そういう読まれ方はしないんじゃないかと」
山根「事典の場合は書評は出てこないと思うんですけど、こっちの苦労と関係なく中身として評価できるかはみなさんに判断してもらうしかないですね。ぼくとしては開かれた孤独な書物という言い方を鈴木さんがされたので、おお!という(笑)。みなさん、開かれた孤独な事典をどうぞよろしくお願いします(拍手)」