荒川 『ウルトラセブン』のワイアール星人の回で、中真千子さんが駐車場に車を入れると、小包を持ったお手伝いさんがうしろから来るシーンがあって、我々は「野長瀬(野長瀬三摩地)的な恐さ」と言ってるんですが、そういう恐さですね。
——等身大のなんだかわからないものが来るのって恐いですね。
荒川 そういう日常的なところで「あっ、びっくりした」みたいな感じを出せないかなあ、というのが(『クウガ』には)最初からあったんですよ。ただ、僕の方も戦隊もののスタンスに慣れちゃってる部分があって、シフトするのが大変だったりしたんですけど。
——それは、けれん味のあるものに慣れてしまっているということですか。
荒川 ええ。「これだとおとなしすぎないか」という気がしたりということがあって、ついやりすぎちゃったり。そういうことで言えば、1、2話を撮られた石田(石田秀範)監督なんかは、戦隊は手掛けておられませんし、元々映画好きだというところで、テイストがうまく合致したんではないかと思います。7、8話なんかでも、ハチの怪人に上空から狙撃されて被害者がばったり倒れる場面をわりと引き絵で撮っておられて、「おお、こういう感じ」なんて喜んだりしました。
——まさにけれんでもないけど地味でもなくて、ちゃんと恐いという感じでしたね。
荒川 それだけに、そこからグロンギの怪人が「パワーアップするというのはどういうことなんだろう?」というのが悩みの種になってるんですけどね。
——なるほど。一方のクウガはさらにいくつ形態が増えるんですか?
荒川 一つずつの形態に対して新たなパワーアップ形態が出てきます。ライジングフォームというんですけど、雄介が電気ショックを受けたせいで、ビリビリっと出てきちゃうんです。
——すると最初の白い形態も含めて合計9タイプということになるんですね。
荒川 そうです。
描くべきものはきちんと描く
——悩まれているという「敵の強くなり方」(笑)について教えてください。
荒川 粗野な人たちじゃないだけに、強くなればなるほど余計理性的というか落ち着いちゃうんじゃないかってのがまずありました。理性的って言うと変だけど「もっと頭を使って楽しみたい」みたいなことになるんじゃないかと(スタッフ間で)話してまして。だとすると、今度は殺した人数にこだわるんじゃなくて、どう殺したかとかそういう方向にいくんじゃないかと。芸術点みたいなもんを競うというか。ただ、それだと表面的な凄さは減ってるんですよね。そこをどうしたらいいかが悩みどころで。
——しかしそれはいよいよ快楽殺人者の群れという感じですね。
荒川 凝った狩りの仕方を考えるということでしょうね。
——『プレデター』ですね。
荒川 どうすれば人間がもっとイヤがるか考えてる。今書いてるフクロウの怪人なんかは、普段は人間の小説を読んだりしてるんですよ。それで人間の気持ちを研究して狩りに臨んでみるみたいな。
——インテリな感じですね。高寺(高寺成紀)さんにもお聞きしたんですけど、『クウガ』では怪人たちが起こす事件の残虐な部分をかなりきちんと見せようという部分がありますよね。当然、反発もあると思うんですが。
荒川 今日も東京新聞にそういう意見が出てましたね。(残酷描写を)野放しにしちゃうことはいけないことだと思いますけど、ただやっぱり「誰かが殺されたらこんなことが起こるよ」というのはきちんと見せたいんですよ。悲しむ人がいて、怒る人もいて、迷惑を受ける人もいて、というようないろんなことを見せるためには、ちゃんと人が死ぬところをやらないといけないと思うんです。怪人が倒れるとみんな元に戻るというのも、それはそれで平和でいいんだけど、それでは描き切れないこともあるのかなあ、というのが戦隊ものをやってきた上で感じていたことなんで。見る側の人に責任を押しつけるつもりは全くありませんけど、一緒に見ている親御さんが「あんなことしてひどいね」「人が死ぬと悲しむ人がいるよね」ということをお子さんと話すきっかけにしてもらえると嬉しいなと思います。
——なるほど。
荒川 結局はさじ加減ということなんでしょうけど。あるだろうことはちゃんとあるものとして見せた方がいいんじゃないか。その代わり、ありえないことはありえないものとして描くというのが大事なんじゃないかと思うんです。どんどん空想の世界に行ってしまいがちな人たちがいろんな事件を起こしている昨今だから、逆にかっちり見せていきたいなあ、と。
——それでは最後に本誌の読者に何かメッセージがあれば。
荒川 一所懸命やってますので、見ていただけるとありがたいです。
——今日は本当にありがとうございました。(2000年6月12日 東京大泉 東映テレビプロダクションにて)
以上 “SFオンライン41号”より引用。