私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

寺脇研 ブログ “人生タノシミスト”(2008)(2)

 2008/3/11 教育への思い

 社会や教育の在り方について考えようという人々が集まる会に、いくつか参加しました。2月23日には千葉県の松戸市で、子どもに本の読み訊かせをしているグループが中心になった市民が集まりました。テーマは、「ゆとり教育」について考えることです。実際にお子さんを学校へ通わせている方々が多く、熱心にわたしの話を聞いてくれました。3人の子を育てているという父親と母親がまだ抱っこされている一番下のお子さんを連れて聴きにきてくれたのは、とてもうれしいことでした。

 中には、団塊世代だという年輩の男性もいて、自分たち世代が子どもたちのためにできることは何か、と問いかけてくれました。そう、仕事の負担がなくなり、身体はまだまだ元気な五十代後半から六十代にかけての団塊世代の皆さんが、地域で子どもと積極的にかかわる活動をしてくれたなら、どんなにすばらしい結果になるでしょうか。

 3月1日には、横浜市青葉区ひばりヶ丘小学校の学校説明会に参加しました。公立の学校も変わってきたものです。4月からの新年度にどんな教育をどうやって薦めていくか、事前に保護者へ説明するのです。全保護者の2割程度に当たるという数十人の親たちが集まりました。わたしの役目は学校側の説明が終わった後、校長と対談形式でこれからの教育を語ることです。

 集まった親たちの、実に一生懸命自分の子どものことを考えている様子に、すっかり胸をうたれました。こうやって見守る親がいる限り、子どもたちは幸福です。

 翌2日には、名古屋の学生や若い社会人がやっている勉強会で講師を務めました。日本の教育の概観とこれからの教育の流れを語ってくれということでした。集まったのは名古屋市内のいろんな大学のいろんな学部に在籍する男女の学生と、社会人になって間もない人たちです。これからの世の中をどうしたらいいか、教育をどうしたらいいかについて、熱く語り合いました。

 3つの集まりに共通するのは、世の中をよくしていこう、子どもたちにいい教育を提供しようという参加者の思いです。各地に、こうした思いを持った大人がいる。日本も、まだまだ捨てたものではありません。

 

 2008/3/18 映画と、若者たちの悲劇

 昨年秋の東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門で作品賞を受賞して以来話題を呼んでいた若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』が、ついに公開されました。今年屈指の問題作と言っていいでしょう。描かれるのは、1972年2月に過激派・連合赤軍が起こした、いわゆる連合赤軍事件。主婦を人質にして山荘に立て籠もり警官隊と銃撃戦を演じた「あさま山荘事件」と、その後明らかになった戦闘訓練合宿中の仲間同士による凄惨な大量リンチ殺人です。

 この歴史に残る事件を、3時間10分に及ぶ長大な上映時間を通して一部始終を克明に描いています。その時代を知らない若い人たちにもぜひ観てほしいと思うのは、世の中を良くしようと思い革命を夢見た若者たちが陥る悲劇とは、どの時代にも起こり得るものだからです。幕末の歴史を思い出してください。新撰組に代表される幕府方で世の中を変革していこうという勢力と、西郷隆盛坂本龍馬高杉晋作のような反幕府の立場で明治維新という一種の革命を担った勢力がありました。両者は互いに激しい戦いを交えたし、その過程でテロや殺し合いはしょっちゅうでした。新撰組内部や勤王の志士同士の内部抗争によるリンチや殺人もありました。

 日本だけではありません。若松監督が暗示するように、パレスチナイスラエルの抗争でも、同じようなことは起きています。その意味で、どの時代にも、世界のどこにも、通じる物語なのです。その証拠に、この映画は2月のベルリン映画祭フォーラム部門で、最優秀アジア監督賞と国際芸術映画評論連盟賞の2つの賞を穫っています。

 この映画の扱う事件をもっと多面的に知りたい方には、次の作品をDVDなどで観ることをお勧めします。小林正樹監督『食卓のない家』(’85)は殺人犯となった学生の家族の立場を、高橋伴明監督『光の雨』(’01)は映画の中に映画があるという、いわゆる「入れ子」構造によって現在の若い俳優たちが連合赤軍を演じる中で抱く感情を、原田真人監督『突入せよ!あさま山荘事件』(’02)は警察側の立場を描き、それぞれの視線でこの事件を描いています。若い人たちには、特に高橋作品がお薦めです。

 これもまた、映画の楽しみ方のひとつなのです。

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

 2008/4/15 落語とわたし

 映画や芝居のことをいつも書いていますが、わたしの好きなもののひとつに落語があります。大学に入って東京暮らしを始めたとき、それまで育ってきた福岡や鹿児島になくて東京にあるもの、寄席へ行ってみるのが念願でした。九州では、テレビの「笑点」(その頃の人気番組が、今も続いている!)を見て落語家の発想って面白いなあ、と思っていたものです。

 願いは叶って、新宿の寄席、末広亭に時々足を運ぶようになりました。就職して仕事が忙しくなると遠のいていたのですが、79年頃から、熱心に落語を聴くファンになっていきます。その頃付き合っていた女友達が落語ファンだったのがきっかけでした。なにしろ、映画を観まくるようなオタク体質ですから、すぐに彼女を上回る落語フリークになってしまったのは当然の成り行きです。

 82年頃からは専門誌に落語評や落語論を書くようになり、「落語評論家」を名乗ることになりました。98年からは、日刊スポーツ新聞社が主催する「にっかん飛切落語会」を舞台にする若手落語家のコンクールで審査員を務めています。

 どれくらい落語を知るとそんな立場になれるか、ですか? 映画でも落語でも評論家に資格試験はありません。ただひたすら、数を経験することでしょう。最初の数年間は、手当たり次第に寄席や落語会に行って聴いていました。現存するあらゆる落語家の高座を見ること、古典落語を聴いたらそれが何という噺だか全部わかるようになること、が目標でした。そして、当時は、それがほとんど達成できていました。

 わたしが最もたくさん落語を聴いたのは82年です。年間で1546席の落語を聴きました。1回の寄席通いや落語会で聴けるのは平均7~8席ですから、200回程度になる勘定ですね。文部省(当時)に勤めていたわけですが、どうやって時間を作っていたんだろう、と改めて驚きます。仕事を怠けていたわけではないから、余暇のほとんど全てを落語に投じていたわけです。いや、映画も年間100本くらいは観ていたんだから、落語と映画の日々だったことになります。

 次回は、もっと詳しく回想してみましょう。

 

 2008/4/15 落語漬けの毎日

 落語漬けの毎日だった頃のことです。とにかく、暇さえあれば落語を聴きに行っていました。年間で1546席の落語を聴いていた82年の記録をひもといてみると、われながら感心するくらい精勤しています。たとえば3月7日日曜は、池袋演芸場で午後0時から5時くらいまでの昼席、5時から9時の夜席をぶっ通しで聴いて20席。同月22日祭日、4月4日日曜も、同じように昼席、夜席のぶっ通し… 。池袋演芸場に根の生えたような状態でした。現在の池袋演芸場は新しいビルの地下にありますが、当時は古びた汚いビルの3階にあってエレベーターもなく、傾き気味の階段を上がっていったものです。


 と思うと7月31日土曜には浅草演芸ホールの昼席から銀座にあった料理屋で7時から行われた「椀や土曜寄席」、9時半からの新宿末広深夜寄席と駆けめぐっています。圧巻は8月14日土曜、浅草の昼席から池袋の夜席、そして池袋深夜寄席、と12時前から11時過ぎまで実に12時間にわたって落語を聴いていました。若かったんですねえ。もう二度とあんな生活はできませんが、懐かしい思い出です。


 ただ、はっきりしているのは、現在わたしが落語評論家として活動できているのは、あのシャワーのように落語を浴びた体験があるからに他なりません。そんな時期を持てたことを幸せに感じています。何事も、一度は徹底してやってみるものだと思うのです。(つづく) 

 以上、ブログ “人生タノシミスト”より引用。