私の中の見えない炎

おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー

井上ひさしと財津一郎・『薮原検校』『小林一茶』(1)

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 戯曲に小説、評論、映画・テレビ脚本など多彩な仕事を遺した、故・井上ひさし。この偉大な作家は喜劇的な趣向やヒューマニズムあふれる作風、啓蒙精神に満ちた言動などから温厚な印象を感じさせるが、その生涯はトラブルで彩られていた。

 遅筆による舞台の延期・中止、戯曲執筆放棄の末に雲隠れしてプロデューサーを破産に追い込んだこと、夫人への暴力や家庭内の確執…。一連の経緯は西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』(牧野出版)や『家族戦争』(幻冬舎)、井上麻矢『激突家族』(中央公論社)などに記されているが、筆者がちょっと興味を覚えたのは井上と同じ1934年生まれの財津一郎との摩擦だった。 

 井上ひさし脚本の舞台『薮原検校』(1973)により、財津一郎ゴールデン・アロー賞を受賞。主演は高橋長英、その愛人(ヒロイン)役は太地喜和子という座組みだった。日本経済新聞の川本雄三は評する。

 

『薮原検校』という芝居は、文字通り人生を手探りで生きていく盲人のドラマだったが、その中で盲学者の塙保己一に扮した財津の演技は、抑制によってかえっておかしさがにじみ出ているような味わいがあった」(「悲劇喜劇」1973年12月号)

 

 財津自身も達成感のあったようで、自伝『聞いてチョウダイ 根アカ人生』(熊本日日新聞社)では誇らしげに回想する。

 

私は、目が見えずとも品性を磨くことを杉の市に諭す大学者「塙保己市(一)」や、ラストシーンで杉の市の首を切る介錯人など、6役を演じることになりました。いずれも重要な役どころでした。

 正直、台本を読むだけではピンとこなかったのですが、立ちげいこを通して「これはすごい作品だ。半端な気持ちではやれないな」ということが分かりました。

 周りの若い役者さんたちは、楽屋で「コマーシャルのフレーズを入れて観客を笑わそう」なんて話しています。しかし、私は「井上作品はそんな安っぽい芝居じゃない」と思い、安易な笑いは採り入れませんでした」(『聞いてチョウダイ 根アカ人生』)  

 その成功を経て井上の『小林一茶』(1979)でも、財津は起用される。だが今度は初日前に降板してしまう仕儀と相成った。「週刊サンケイ」1979年11月8日号は「役者バカのツッパリ? 一茶を降りた財津一郎」との見出しで報じている。

 

井上ひさし江戸三部作連続公演」にとんだケチがついた。『薮原検校』『雨』(この二作は再演)と順調にきていたが最後の『小林一茶』で、主役の財津一郎が、降りてしまったのである。

 財津が所属する志母沢事務所は、

「降りたということではなく、十月十六日になっても台本があがってこない状態では、(稽古日数が足りず)よい芝居ができない。これではどうしようもないので見合わせようということです。商業演劇ではないから、最低でも三週間は稽古しないと…。それに井上ひさし氏が途中から竹里のほうがふくらんできたのでこっちをやって欲しいといってきた。しかし、財津は最初から一茶一本で、彼なりに資料を集め一茶像をつくって楽しみにしていた。それでとりあえずやめようということで、プロデュース先の五月舎にまかせた。共演の渡辺美佐子さんも稽古ができずにビビッているそうですよ」

 遅筆で有名な井上氏のことを百も承知の財津一郎がゴネた(?)のは、一茶役をやれない不満が原因か?」(「週刊サンケイ」)

 

 タイトルロールの小林一茶が当然主役で宿敵・竹里は準主役という位置づけに思えるけれども、意図は違うのだという。

 

井上氏に代わって好子夫人はいう。

「財津さん、矢崎滋さん、それに渡辺美佐子さんの三人は、何日かかっても待ちますといってくれたんです。財津さんはよい役者で、とくにウケの芝居のうまい人なので竹里役にピッタリ。それにこの芝居は一茶の出ない一茶劇なので、主役は竹里役なんです。一茶役にこだわる必要はないと思うんですが…。役は理解できても本は理解できないということになりますね。本が遅いので何もいえませんが、これではあまりに主人がかわいそう。お金にはならないし、あちこちからパンチを食うし…。芝居の世界って保守的なところなんですねぇ」(「週刊サンケイ」)つづく