【橋本忍の想い出】
野上氏は、60年以上前から橋本忍と面識があったという。
野上「私は伊丹(伊丹万作)さんをいちばん尊敬してますよ。文通しかしてませんでしたけど、惜しいことしましたね。
橋本さんも知ってました。二枚目だからね。輝くばかりで、伊丹さんの奥さんは光源氏みたいだって。『羅生門』(1950)は伊丹さんが亡くなったときに伊丹さんのとこに預けていた橋本さんのホンを、助監督の佐伯(佐伯清)さんが預かって。黒澤(黒澤明)さんが会社から時代劇撮ってと言われたときに佐伯さんに相談して、預かってたホンを見た。もともと橋本さんのは短かった。まだ若いころから知ってて、あんな偉くなると思わなかった。
伊丹さんが亡くなった後、命日に私やプロデューサーと橋本さんと集まってたんだけど、そこでシナリオを回し読みしてて、それが『私は貝になりたい』(1958)になったんですよ。床屋の小さい話だった気がしたけど、そのころから存じ上げてますから100歳まで長いよ(笑)」
『羅生門』のほかに橋本は、『七人の侍』(1954)、『隠し砦の三悪人』(1958)など黒澤明映画の脚本チームに参加。
野上「共同で脚本を書いているときは、そこにいた人しか真実は判らない。最終的には黒澤さんが書くけど、一字も書かない人もいる」
若き日の中島氏は1960年から橋本に指導された。
中島「橋本先生のところに2年近くいましたけど、まだ(自分は)24〜25で語る相手としてはねえ、若すぎた。ひたすら机を挟んで、毎日これを書けと渡されて、ワンシーン書いたら「違う!」と返されて。また「違うよ!」と。その繰り返し」
野上「何が違うのって訊かないの?」
中島「訊いたら破門です。橋本先生は42歳だった。まだ若くて美しくて。教えてやろうって気がないとあんなことできない。手がかかって、自分で書いたほうが速いんだから。ぼくが書いても気に入らない。10回くらい往復して、最終的に台詞がちょっと入るだけだけどそれでもこっちは嬉しい。橋本さんは自分のためにはならないけど、若い弟子のためにやってくれて。そういう人はいまいないですね」
『南の風と波』(1961)は中島氏のシナリオを橋本が監督を務めて映画化。野上氏は記録を担当。
中島「『南の風と波』ではぼくホン書いて、初めて並びでタイトル出してもらって(橋本・中島両氏の共同脚本)。野上さんが現場でスクリプターでついてくださって。ぼくは方言指導で行っただけ」
野上「あんた傍観してたね。なつかしい、みんな死んじゃった。橋本さんは(監督としては)あんまり上手くなかった(一同笑)」
中島「『南の風と波』はよかった」
野上「それが上手くなかったって言ってるんだよ。どうやって撮ればいいかわかんなかったんでしょ」
中島「きょうの『首』(1967)とスタッフかぶってる。改めて見ると正統的」
野上「ふたりの横顔をずっと撮ってる。あれは素人がやるんだよ(一同笑)」
中島「でもその後のよりは(一同笑)」
野上「ひどいのあったね」
橋本監督・脚本『幻の湖』(1982)は愛犬を殺された風俗嬢がマラソンの練習に励む怪作。
中島「あれはカルトになってる」
野上「私「ひどいね」って言ったら、橋本さん返事しなかった(一同笑)」
中島「ぼくはそんなこと言えない」
野上「(マーケティングでつくって)犬を連れて散歩する人口と、マラソンの人口とその数がみんな映画館来ると思ったって(一同笑)」
中島「そろばん弾いて欲張りな作品になった。撮影中大変だったみたいよ。時代劇なのに車の音とか」
野上「カメラの人も降りて、ホンがひどいから村ちゃん(村木与四郎)も降りて」
中島「先生の大作だから、なけなしはたいて100枚つづりの前売券買った。13万くらい。恩返ししようと。だけどもらい手がない(一同笑)。あげるって言っても「いやいい」と。こんな残っちゃって」
田中「黒澤さんは見たんですか」
野上「見るもんですか(一同笑)。ホンだけで呆れかえって」
中島「橋本プロでやるとなると、当てたくて欲張ったんでしょう」
野上「あの人は当てることだけ。自分でそう言ってるもん。競輪、競馬もそうだよね。封切りの日は切符売り場に立ってる」
中島「お父さんが呼び屋さんみたいなことやってた。お父さんは尊敬してた。お母さんのことは聞いたことない。お父さんはいい男」
野上「親父に似たのかな」
中島「世田谷に見えたとき挨拶に行ったら、橋本さんをいぶしたような風貌。いかにも二枚目じゃなくて味のある顔」
野上「(客を他のつくり手以上に)異様に気にする。金と言うより自分への評価だからね。ジョーハクさんだってそうでしょ」
2014年の橋本のインタビューも上映された。若き日の巨匠同士が怒鳴り合った話をしているが、よく聞き取れない部分も。
野上「中島くんのこと、将来性があるってよ」
中島「あのときはね(笑)」
野上「発音不明瞭だね、先生は(一同笑)。入歯じゃないよね、あの人。これは3年前で96歳? お若いときだ(一同笑)。肺病で兵役免除で、その病気がいまもあるんでしょ。こないだ血吐いた?」
中島「でも治ってるんじゃない? 今年100歳ですからね」
野上「毎年誕生祝いをやってたけど、去年から先生は出てこられなくなって」
中島「去年の7月18日はぼくだけ行って。あなたは行きませんでした!(一同笑) あなたと洋次(山田洋次)さんは来られなくて、ぼくが電話したんですよ。お誕生日だから伺いたいけど、洋次さんは仕事が忙しくて、のんちゃんも無理。先生は「中島くん、きみだけでもいいよ」」
野上「それはご苦労さまでした(一同笑)」
中島「そのときの話が面白くて。『日本のいちばん長い日』(1967)や『切腹』(1962)のこと喋ってくれて、とっても元気でしたよ。99歳の誕生日」
野上「私、なんか贈ったぞ。うなぎかな。100歳は何かやりましょう。長生きするもんですね」
中島「先生はパソコンは使えなくてワープロでやってます。自叙伝を書いてます。3人の女性が出てくる」
野上「前の誕生日に、女難じゃないけどその歴史をって言ったら「最後の3人」にしようかって。そりゃ3人ぐらいじゃ済まないでしょ」
中島「(女性遍歴を)少しは話してくださいって訊いたことがあるんです。先生は「ぼくは競輪に夢中で競輪ばかりだったよ」ってごまかしてました」
野上「橋本さんは社会派だと言われたけど、本人はそういうのないよね」
中島「社会性にプラスして、欲望を描く浄瑠璃が原点」
野上「松本清張みたいだと思われてて会社もそういうのをと。でも本人は違う」
中島「脚本書くと社会的な問題提起、権力への抵抗とかは必要になってくる」
野上「普段はそんな話聞いたことない」
中島「橋本忍さんは世紀の名脚本家です。門下生だから持ち上げるんじゃなくて、どこからドラマツルギーが出てくるのか。全盛期は数え切れないほど脚本賞を。これから先生がお亡くなりになっても(一同笑)彼の作品はずっと残っていくと思います」